体育会系の理不尽さ

ひとしきりあって。
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僕もここで挙げられている"体育会系"というものが好きではない。この機会に体育会系の理不尽さについて、考えていることを書いていきたいと思います。


まず、理不尽、理屈じゃないということは、それが言語化できないということです。一言で言ってしまえば、体育会系のコミュニケーションというのは、非言語化されたコミュニケーションなのです。 

「〜しなければならない理由を教えてください」「〜してはいけないのは何故ですか」といった質問に対して、明確な理由が答えられない。「しきたりだから」「そういうもんなんだよ」と言ってあしらうしかない。言葉で説明できないところによってたつものなんですね、体育会系というものは。


ここで注意しておきたいのは、 Dr-Setonさんも言っているように、ここでいう"体育会系"と"アスリート"とは別の概念であることです。アスリートのコミュニケーションや指導においては、それが言語化されたものはもちろん、非言語化されたものにおいても、本当の理がある。それは、言葉では説明できないけれど、確かに正しい理です。


アスリートとしての個人的な経験から言いましょう。剣道の稽古では、指導を受けている者にとっては理不尽としかいいようがないことがままあります。先生があと100回やれといったら100回素振りしなくちゃならない。なんで100回なんですか、なんて尋ねても、先生が説明してくれるわけじゃない。自分でも、そのへんは無理に言葉にして説明する方がかえって齟齬を生むことになるから、よした方が良いと思っています。

けれども、剣道の稽古が理不尽ということと、体育会系が行う理不尽とでは全く違うんですよ。非言語なコミュニケーションというところは共通していても、剣道の稽古にはやはり正しい理がある。自分たちが理解できていないだけで、指導者はそれをちゃーんと分かってやっている。体育会系の理不尽さには、正しさがない。

その正しさとは何かということを突き詰めればね、それは下の者が成長していけるか、ということです。

普通に考えてですよ、人類が進歩しようと思ったら、次の世代は前の世代より優れていないといけないわけです。このことは以前のエントリ(偉大な発見)で触れました。
もっと言えばね、次の世代は前の世代を超えられるように努力しなければいけないし、前の世代は次の世代を自分たち以上の世代にするために、注力しなければならないんです。

それは学問もアスリートも同じことです。科学だって剣道だって、後進の育成をするために、彼らが間違った方法で進んでいかないために、指導者がいるんですから。

体育会系を振り返ってどうでしょう。その人間関係において、上の者は下の者の成長を助けることがあるでしょうか。ありえないんですね。なぜなら、上の者にとっては、下の者は自分たちの立場を安定させるための土台でしかないからです。

体育会系の上下関係というのはつまり、年齢が上のものが年功(という名の無条件)をもってして優れている、ということなんだから、下の者は必ず上の者に劣るという体裁なわけです。実際に劣っているか否かに関わらずね。そして上の者から常に従順でいることが求められる。

そんな上下関係を別の言葉で表せば、"劣化コピーの再生産"であると言えます。そこでは下の者は上の者に一生かかっても追い越せない「年齢」で判断され、年少だから年功がないため劣っているとみなされます。それでいて、下の者は上の者に従順で反対意見を述べないことを求めるから、下の者の考えは上の者のコピーになります。

何より愚かしいことは、自分より優れた年少者や組織の価値観に反する者を自分の上に押し上げれば、自分の立場が危うくなる、と体育会系が考ることです。

この仕組みの中で誰かが「上の者」になろう、「上の者」のままでいようと思ったら、どうするでしょうか。自分の下に、自分より劣っていて、自分と同じ意見、価値観、ルール、枠組みで活動する者を生み出すしかないわけですね。体育会系はつまり、劣化コピーを生み出し続けるシステムといっていい。

そこには、下の者を育てることで見える、組織の発展や進歩といったものは全くありません。

さて、ここまで他の分野の理不尽さと体育会系の理不尽さの違いを論じてきました。その理不尽さを通して、自分の立場を守りたいがために下の者をないがしろにする、体育会系の姿が浮かび上がってきました。

今回の体育会系の話題については、もともと明治大学の応援団の痛ましい事件から発展したものです。"体育会"は大変けっこうですけど、"体育会系"にはならないように、気をつけたいものですね。上下関係、年功序列についてはもう少し語りたいことがあるので、また別の記事で書くことにしましょう。

体育会系の理不尽さ、その緩慢な退廃が、詩になるもの。

参考文献:加藤秀俊『人間開発 -労働力から人材へ-』中公新書、1969年