アニメ「魔法少女まどか☆マギカ」感想

そんなわけで。ひっそりと「魔まマ」の雑感を書いておこう。

最終話で思い起こした作品

Fate/stay night」「スマガ」「封神演義」「鋼の錬金術師」「ジャイアントロボ THE ANIMATION -地球が静止する日」など。TLで関連性が話題になった「デモンベイン」や「シュタインズ・ゲート」はまだプレイしていない。SF小説はあまり読んでいないので参照できるものがなかった。それにしても「魔まマ」の連想喚起力は異常。

ほむらとまどか

ループ

直前まで「スマガ」をプレイしていたので、第11話においてほむらが言った「気持ち悪いよね」という台詞がよく理解できた。「気持ち悪い」が意味するのは、存在のレベルが違う者に対して人間がどうしても感じずにはいられない違和だ。時間をループすることで、ほむらはまどかに対してメタレベルの存在になってしまった。まどかが知らないまどかのことを、ほむらは知っている。その圧倒的な記憶の差がほむらとまどかの間に壁を作ってしまう。
ループによってメタレベルの存在になってしまった者が抱えるこのような苦悩は「スマガ」のテーマの一つだった。「スマガ」では、別の誰かが同じメタレベルに立つことによって関係性を結ぶ、という形で問題の解決が図られた。そして、「魔まマ」ではこの問題に対してまた違ったアプローチがなされている。つまり、まどかは魔法少女となり、魔女を滅ぼす概念と化し、ほむらに対してメタレベルの存在になる。そうなることで、まどかはほむらがこれまで積み重ねてきた孤独な戦いの記憶を理解し、「私の、最高のともだち」という関係性を結ぶ。
結局、ほむらとまどかのどちらかが相手のメタレベルに立つという構造は作中を通して変わらなかった。世界改変直前に彼女らが交わした会話が、真に互いを理解した上で成立していたかどうかは疑問である。果たしてこれでよかったのか、と思わなくもない。
けれど、「ひどい……」に対する「ううん、違うよ、ほむらちゃん」、「こんな場所に一人ぼっちで永遠に取り残されるっていうの?」に対する「ふふっ 一人じゃないよ」というまどかの否定の台詞は、怖いくらいに優しい声で放たれる。大切なのはそんなまどかの言葉によってほむらの孤独な戦いが報われたということであって、彼女の苦悩を分かってくれるまどかが同レベル存在かメタレベル存在か、ということは些細な問題なのだろう。コミュニケーションの一つの形としては、こういうのもありだと思う。

対比

「あなたを救う。それが私の最初の気持ち。今となっては、たった一つだけ最後に残った道しるべ」であるほむらに対して、まどかは最後の願いをもって最初の道しるべを打ち立てているように見える。 この対比も悲壮ながら美しくはあった。

ラストシーン

ほむらがいつかもう一度まどかに会えるという「奇跡」を信じることができるか、という点が解釈の自由として視聴者に与えられている。僕たちがそれを信じないならラストシーンはまどかを想いながら永劫戦い続ける地獄のビジョンになるし、信じるなら天国のビジョンになる。ほむらはまどかともう一度会えるよ派・会えないよ派を考えると、会えるよ派はさらに、まどかが高次から低次に降りてくることで会えるよ派・互いの存在レベルは変わらないけどほむら臨終の間際に会えるよ派・ほむらが高次の存在になることで会えるよ派に分けることができるだろう。
一応僕の解釈を書いておくと、多分Cパートのほむらは最後の魔法少女なので、彼女が全力を尽くした末に戦い敗れ、まどかに救ってもらった時に魔法少女の物語は終わる(互いの存在レベルは変わらないけどほむら臨終の間際に会えるよ派)。

魔法少女の生と救済

話は前後するが、まどかが魔法少女に対して行った救済について所感を述べておく。

分を弁える

視聴時に思ったのは、ずいぶんと潔い選択であるということ。どこまでを救ってどこからを救わないか、自分が施す救済の内容を(まどかの中で)適切にコントロールしている。結果として、僕はまどかの行為から分を弁えた態度を読み取ることができ、率直に言って好感を持った。
分を弁える、というのは人間から悲しみや憎しみという感情を消去して種そのものを進化させる方向へ行かなかったことを意味する。それは14歳の少女1人がやることではなく、人類全体で克服していくべき問題だと思うしね。*1まどかはあくまで魔法少女に対する救済者であって、全ての人間に対する救済者ではない。*2

点と線

キュゥべえによる願いの実現とまどかによる救済モデルを比較してみると、前者を点、後者を線として見ることができる。
願いの実現というのは人生におけるある一点において果たされるもので、その時は白だと思っていたものでも後になって振り返ったら黒、ということは往々にしてある。それについて「あの時は確かに白だったから今は(最後は)黒でもいいじゃん」という物言いをするのがキュゥべえだ。こいつは魔法少女の人生を「点の集合」としか思っていない節がある。
対して、まどかは「あの時白だったものを今も(最後まで)黒にしない」。そうすることで、魔法少女の人生は始端と終端によって結ばれた「一本の線」として浮かび上がってくる。「一本の線」である人生には、「点の集合」である人生からは得難い*3肯定感がある。
また、魔法少女の人生を点から線へと読み替えることによって彼女たちの言葉を嘘にしない、というところも評価したい。これは北守さんや消毒さんのエントリによって再確認した。僕は「嘘から出た真」がわりと好きだ。*4
マミの「もう何も怖くない」、さやかの「後悔なんて、あるわけない」といった台詞は、点として見た時には本心からの言葉だったかもしれない。だけど、傍目には死亡フラグとしか読めなかったし、また最終話に至るまでは事実そうだった。
ところが、まどかによる救済を経て、マミの「もう何も怖くない」という言葉は本当になったし、さやかは「もう何の後悔もない」と告げている。これらの言葉に宿ったダブルミーニングは素晴らしい。

個別具体的な救い

まどかは、全ての魔法少女を救うといっても、みんないっしょくたに扱うわけじゃないんだよね。彼女の「この手で」という台詞と映像からわかるように、まどかは「魔法少女まどか」として倒れ逝く魔法少女の側に現前し、個別具体的に一人一人を救っている。*5これも僕にとっては好ましい態度だった。

魔法少女にならないという生について

再構成した世界のまどかは魔法少女には救いを与えているけれど、魔法少女になろうとするほどの願いを持つ普通の少女には救いを与えていない。マミさんが「私たちの希望」と言ったとおり、まどかは魔法少女の希望であって全人類の希望ではない。それをもって、「魔まマ」は「魔法少女魔法少女による魔法少女のための物語」だったと言える。
注目したいのは、魔法少女になる/ならないという選択肢を提示された後に「ならない」ことを選んだ少女が本編中に一人も描かれていない、ということだ。つまり、「魔まマ」は魔法少女にならなかった生に対して肯定も否定もしていない。「魔まマ」本編は魔法少女になる人生とならない人生の質的比較から巧妙に逃れていて("さやか-まどか"が途中にあったけど弱い)、魔法少女にならない人間は物語の内に入れない。観測範囲の「魔まマ」不満のいくつかはこの点が原因になっているように思う。僕はこの問題について、「魔法少女魔法少女による魔法少女のための物語」だから仕方ないものとして受け取っている。今後、本作について何らかのアフターケアがなされるとすればそこがポイントになるのではないだろうか。

自分のことが好きになれたら、それはとっても嬉しいなって

余談。「魔まマ」で特に好きなキャラクターは杏子だ。軒並み自己肯定感が低い「魔まマ」の登場人物において、杏子は自分で自分を肯定することができる強い娘だった。それは、死に際自分のソウルジェムに口づけするシーンに表れていたと思う。あの場面を観ていて、「ああ、杏子も自分のことを好きになれたんだなー」という感慨を抱いた。雪駄さんが以前言っていたように「自分(達)を憐れんでノリで死のうとした」感はあるし、それが「点の集合」である人生を生きるということなんだろう。逆に言えば、自分を肯定できるのはここしかないという点(タイミング)の見極めがすごいよね。こんな言葉では足りないかもしれないけど、彼女の生を祝福したい。

*1:一度起こったことは二度三度起こりうると考えると、「魔まマ」本編の宇宙も誰かが再構成した結果として在ったのかもしれないし、最終話以降にもまた宇宙が再構成されるかもしれない。もし「魔まマ」でまどかが改変した世界に何らかの宿題が残っていたとしても、その解決は次の人類が次巡以降の宇宙でやればいいのだ(えー

*2:魔法少女」と「全ての人間」の間にあるはずの「家族や友達」という中間項に対する意識が薄いような気もするけど、まどかと詢子の対話によってある程度ケリはついていると考えよう。

*3:杏子を見るに、全く得られないわけではないだろう。

*4:AIR」における「観鈴ちん、強い子」とかまさに。

*5:数多くの人間と個別具体的に向き合うという行為から、ハガレンホーエンハイム(「おれは自分の中にいる53万6329人全員と対話を終えている」)を思い出したりした。