偉大な発見

はい、そんなわけで。
人生面白くないよ
404 Blog Not Found:人生面白すぎてちょっと困ってるかも
 元増田(はてな匿名ダイアリーのこと)が言っているのは、自分が発見したことが既に体系化されていると知ったときの空しさでしょう。これについては 1937年に発行された吉野源三郎さんの「君たちはどう生きるか」に詳しく書かれているので、引用してみましょう。

こういうと、君は、さぞがっかりすることだろうね。折角の発見が、とっくに人に知られていたというんでは、つまんないなあと思うかも知れないね。

人間は、どんな人だって、一人の人間として経験することに限りがある。しかし、人間は言葉というものをもっている。だから、自分の経験を人に伝えることも出来るし、人の経験を聞いて知ることも出来る。その上に、文字というものを発明したから、書物を通じて、お互いの経験を伝えあうことも出来る。そこで、いろいろな人の、いろいろな場合の経験をくらべあわすようになり、それを各方面からまとめあげてゆくようになった。こうして、出来るだけ広い経験を、それぞれの方面から、矛盾のないようにまとめあげていったものが、学問というものなんだ。だから、いろいろな学問は、人類の今までの経験を一まとめにしたものといっていい。

印刷技術が技術、文化の発展に役立ったということは周知の事実ですね。そこから、異なる経験をまとめる動きが出てきたのがポイントということでしょう。

そして、そういう経験を前の時代から受けついで、その上で、また新しい経験を積んで来たから、人類は、野獣同様の状態から今日の状態まで、進歩して来ることが出来たのだ。一人一人の人間が、みんな一々、猿同然のところから出直したんでは、人類はいつまでたっても猿同然で、決して今日の文明には達しなかったろう。
だから僕たちは、出来るだけ学問を修めて、今までの人類の経験から教わらなければならないんだ。そうでないと、どんなに骨を折っても、そのかいがないことになる。骨を折る以上は、人類が今日まで進歩して来て、まだ解くことが出来ないでいる問題のために、骨を折らなくてはうそだ。その上で何か発見してこそ、その発見は、人類の発見という意味をもつことが出来る。また、そういう発見だけが、偉大な発見といわれることも出来るんだ。

これはその通りですね。どうせ発見するなら、人類が未だに解決していない問題を解決するような発見をした方が良い。車輪の再発明に特許が認められないことを考えれば容易に理解できます。
しかし、偉大な発見をするためには今までの学問が何をどこまで解決したのか学ぶことが必要不可欠です。

これだけいえば、もう君には、勉強の必要は、お説教しないでもわかってもらえると思う。偉大な発見がしたかったら、いまの君は、何よりもまず、もりもり勉強して、今日の学問の頂上にのぼり切ってしまう必要がある。そして、その頂上で仕事をするんだ。
しかし、そののぼり切ったところで仕事をするためには、いや、そこまでのぼり切るためにだって、──コペル君、よく覚えておきたまえ、──君が夜中に眼をさまし、自分の疑問をどこまでも追っていった、あの精神を失ってしまってはいけないのだよ。

うーん、その頂上の高さも歴史とともにどんどん上がっていくわけで、後に生まれる世代ほどのぼるのがしんどくなっていくんじゃないかなーと思ってしまいます。このへんはどうすればいいんでしょうね。エスカレーターでも作ればいいんでしょうか。
小飼さんは、のぼる山が多いから楽しいよ、と言っているように思えます。一つの山をひたすらのぼり詰めるのも良し、複数の山にのぼってロープウェイで行き来するも良し。各人各様ののぼり方があるっていうことですね。
元増田が言うように、山の周りをぐるぐる回ってルーチンしているように思えることもあるかもしれません。でも案外それって"円"ではなく"螺旋"であって、だんだん上の方にのぼって行ってるもんじゃないかなって思います。
偉大な発見、心に生まれた問題意識をごまかさない精神が、詩になるもの。