大学で学問をすることと地域性との関係

そんなわけで。
一週間ほど前に、大学や高校に関する以下のようなニュースがありました。
「悪評地区」、京都府大准教授が大阪府大・市大を中傷 : ニュース : 関西発 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

森毅さんの話「悪口でもあからさまに言わないのが京都の伝統やのに。京都の大学の先生が張り切ったのはいいけど、えらい芸がないですな」

森毅さんにこんなコメントをされてしまうと、苦笑するしかないですね。確かに、京都においてこれだけあからさまに他所様を批判するのはおかしなことと言っていいかもしれません。
しかし、次のはてブコメントにも留意しておきましょう。

b:id:Fischer 公立大でも教員が生徒集めに走らされている事態こそ問われるべきなのに京都云々とかばかげてる。関東人なら無粋だからで済ませるのか?

はてなブックマーク - 大学の学力は周辺地域の治安の良さに比例しない - こころ世代のテンノーゲーム

公立大学でも教員自らが必死になって学生集めに奔走している現状を示唆した良コメントです。教育問題について地域性を問題にした者に対して、地域性の論理で答えたのが森さんのコメントだとすると、こちらは問題点を地域性ではなく現状の制度や社会に求めたコメントと言えるでしょう。

僕の意見としては、2008-01-25 - 大学に関する話題日記の、

自分の大学を持ち上げるのはいいですが,引き合いに他大学の事実無根な事例を挙げるのはフェアではありません.

っていうコメントに同意。やっぱり熱意の傾け方がおかしいですよね。

しかし考えてみると、実際の大学数では大阪より京都の方が多いわけです。治安は抜きにしても、京都には大学を育てる風土があると感じることがあります。「学生さん」には優しい街でしたからね、京都は。もっとも、この場合の「学生さん」は京大生とニアリーイコールですけど。

大学で学問をする環境として京都と大阪を考察した人に、梅棹忠夫さんがいます。ここでは梅棹さんの著書「日本三都論」の「京都と大阪の研究室」から一部を引用してその考えを紹介しましょう。

学問には適した環境が必要である。世俗からはなれた静かなところがよいにきまっている。これがいままでの通念であり、常識であった。だが環境と学問との関係は、現代では、もうすこしちがった形であらわれてくるようにわたしにはおもえる。
学問は京都でなければそだたないのではない。京都の学問は京都的な限界をもち、大阪の学問は大阪的に育ってゆくのである。……(中略)……
喧噪と世俗のなかからは、現実世界の刺激を直接にうけつつ、別ものの学問がそだつ可能性がある。

要するに、閉鎖的な京都に対する開放的な大阪、という地域的特性の違いが、両地での学問の発展の仕方にも違った影響を及ぼすのではないか、と梅棹さんは述べているわけです。優れた学者であり、京都、大阪、東京の日本三都に深い理解を持つ梅棹さんならではの主張です。若干大阪よりの意見なので、京都で学生をやっている僕としては少し寂しいですけどね。

ちなみに原文は1950年に書かれています。58年も前にこれだけ的確な意見が出ていることを考えると、2008年にもなって大学を考えるのに治安がどうこうっていうのは次元が低いよなあ、と感じてしまいます。

もちろん前述のように現状の大学制度に余裕がないため、低次元な勧誘の方法も使わざるを得ない、と言えるかも知れません。58年前と比べて、大学が学問をする場として機能していないんじゃないか、というのも検討すべき課題としてありますし。あらためて、地域的な特徴が学問を行う上で何らかの影響を与えるのか、考えてみるのも面白いでしょう。

大学で学問をすることと地域性との関係、環境・風土が形作る学問の未来が、詩になるもの。

日本三都論―東京・大阪・京都 (角川選書)

日本三都論―東京・大阪・京都 (角川選書)