ゲーム「沙耶の唄」 レビュー

「お前の声は本当にきれいだ‥」
「ひとつききたい‥‥ お前と本当に"仲良く"なるには 男と女どっちになったほうがいい‥?」
「そ‥そうねえ どちらでも仲良くなることはできるけど‥‥」
「ほんとうに仲良くなれるのは‥‥」
「男の子‥かしら‥」
(「王ドロボウJING」アマルコルド前編/熊倉裕一

そんなわけで。「沙耶の唄」を終えた。砂漠に咲いた花の話だけをしようと思う。
郁紀が沙耶と出会う以前、僕たちがこのゲームのクリックを開始する以前から、沙耶は合目的に女性性を獲得している。郁紀が認識を違えてから男性性を獲得(自覚)するのは、沙耶や瑤と家族を形成した後だ。沙耶はいつだって郁紀に対して先行する。先行性が非対称性を生み、その非対称性がついに克服されることはない。
あるいは、「目的」と「理由」の違い、という言い方もできる。沙耶には目的があり、郁紀には理由があった。そういうことだ。"孤独に疲弊し、世界に絶望するほどに、彼女は乙女にな"ってしまっていたから、沙耶は目的を発現させることなく生きていた。彼女を愛する理由を持った、郁紀に巡り合うまでは。二人が身を置いたのは、目的に手を引かれ、理由に後押しされた恋である。
それにしても、「純愛」――他者との関係を純濁という二項対立的な概念で弁え、「僕」と「君」を純の側に置く行為――の暴力性には怖気が走る。もともと恋愛というもの自体がそういった性質を備えているのかもしれないけれど。
そこには、主客を通した二重の差異化がある。「他の主体と違って君のことをわかることができる主体としての僕」と、「他の客体と違って僕がわかることができる客体としての君」だ。後者のことを考えるだけで満ち足りるなら、前者の差異化は行う必要がない。しかし、おそらくそれだけで純愛(恋愛でも何でもいい)は成り立たないのだろう。本作では、グロテスクな描写による客体の差異化に紛れて、巧妙な主体の差異化もまた実現されている。特に、郁紀が自分の身体を人間として認識しているという事実には彼のナルシズムを感じずにいられない。
とはいえ、郁紀が沙耶という未知の存在を理解しようとする態度自体は謙虚なものだ。「君は――いったい、何者なんだい?」という問いかけに、沙耶は答える。

「綿毛の種は風に運ばれて、故郷から遠く遠く離れて、もしかしたら草木なんか一本も生えてない砂漠に落ちちゃうかもしれない。
 そんなとき、たった一粒のその種が何を思うか……それを想像してくれれば、解ってもらえるかも知れない。わたしのこと」

この哀しく美しい言葉によって、僕は否応なく彼女の内面に引きずり込まれてしまった。小さな怪物のことをもっともっと「わかりたい」という気持ちが生まれた。それは、「わかっている」状態や「わかることができる」能力・可能性よりも貴いことではないだろうか。
本作では、テキストに他者の視点が導入されていたために、郁紀と沙耶の交感は愛であったようにも、愛でなかったようにも描かれている。結局のところ、僕たちは信じたいものを信じることができる。
目的と理由が向かったその先で、綿毛の種は花を咲かせた。だから、そこに愛はあった、と説き伏せるつもりはない。
ただ、風に舞った沙耶の唄は、端的に奇蹟だった。