新書「論文の書き方」 レビュー

そんなわけで。清水幾太郎著、「論文の書き方」レビュー始めるよ。

テーマ

本書のテーマを一言で言えば、「ちょっとお堅い真面目な文章」を書く時に気をつけることは何だろう、ということである。
本書は1959年に岩波新書から出版された。著者の清水幾太郎さんはE・H・カーの「歴史とは何か」の翻訳等で有名な社会学者だ。

論文の書き方 (岩波新書)論文の書き方 (岩波新書)
清水 幾太郎

岩波書店 1959-03-17
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本書では、著者自身の文章生活の経験を省みて、そこからいくつかの論文の基本的なルールを導き出すことが試みられている。

「論文」とは

ここでいう「論文」とは内容・形式が知的な文章、「知的散文」程度の意味である。芸術的な文章である小説、随筆、詩の類とは区別される。また、自然科学分野の報告書の類も含まれない。哲学・思想・文化・社会科学の方面についての文章についての話だ。これを冒頭では「ちょっとお堅い真面目な文章」と要約した。
ちょっと、と書いたのは、本書で主に"小学者の小論文"が扱われているからである。大学の卒論・レポート、各種団体の中で必要な論文・報告、他に懸賞論文、講演・演説の草稿などがそれにあたる。

Webで文章を書く時代

さらに書いておきたいのは、現代のWebにおいて、個人がブログに書くエントリもこれに含まれるだろう、ということだ。
もちろん1959年には現在のようなWebのあり方は想定されていなかっただろう。しかし、現代は個人がブログで哲学・思想・文化・社会科学の方面についての文章を書くこともある時代だ。程度として大論文並みのものは少ないだろうけど、小論文並みのものはかなり多くの人間が書いているはずだ。もっと言えば、学問的なテーマでなくても、漫画アニメゲーム等のサブカルについて考察している人なんてWeb上にはいくらでもいる。

ブロガー必読

だから、現代においてこの本を読む時には、自分がブログで文章を書く場合を想定するといいんじゃないかと思う。むしろブロガーにこそ一読をお勧めする。
ブログであるテーマについて真面目に考察したエントリを書く場合、どんなことに気をつければ良いのか。自分の文章がしっかりしているか不安、どうもうまく文章が書けない。そんな人は是非本書を読んで欲しい。僕はこの本がそんなブロガーの悩みを解決する一助になると確信している。

目次

1 短文から始めよう
2 誰かの真似をしよう
3 「が」を警戒しよう
4 日本語を外国語として取扱おう
5 「あるがままに」書くことはやめよう
6 裸一貫で攻めて行こう
7 経験と抽象との間を往復しよう
8 新しい時代に文章を生かそう

要約

1 短文から始めよう

ある程度量的な制約を課した中で文章を書くことが修行になる。また、規模の大きい文章を書く時も、短文でアウトラインをしっかりと組み立ててから行うことが必要であると著者は説いている。

2 誰かの真似をしよう

文体だけを真似することは不可能。文体を真似すれば、物事への感じ方も真似することになる。
学生のレポートにおいて新聞の文章の模倣が目立つ。新聞の文章では、明確な肯定・否定を避け、対立意見のバランスを取り、差し障りのないようなことを言う。そのような新聞の文章は現代の美文であり、そこに手がかりを求めるのは自然なことだ。
しかし、本当に文章を勉強するのであれば、現代の美文の壁を突破する必要がある。新古問わず、ある思想家を選んで、そのスタイルの模倣から出発するべき。

3 「が」を警戒しよう

「……が、……」という接続助詞「が」には、いくつかの用法がある。便利な語だけれど、便利すぎて無自覚に使ってしまうと問題がある。
「が」は「無規定的直接性」を表現する。無規定的直接性というのは、二つの物事がとりあえず関係していることは分かるものの、それがどんな関係かは分からないということだ。つまり、「が」で繋がれた二つの物事の関係は、それが因果関係なのか何なのか分からないぼんやりとした状態にあると言える。
文章を書くということは、あるテーマについての自分の態度をはっきりと表明するということだ。端的に言えば、「が」を使うのは楽な方へ逃げることである。物事をぼんやりとしか認識していないからだ。
正しい文章を書くためには、物事の関係を十分に認識して、「が」から「ので」や「のに」、「にも拘わらず」、「ゆえに」などの具体的関係を表す言葉を使う方向へシフトしていかなければならない。
さて、ここで一度、話し言葉と書き言葉とを区別しておく。つまり会話と文章との区別だ。簡単に言えば、話し言葉には助けがあるけれど、書き言葉には助けがない。
会話には聴き手がいて、お互いの関係や共通認識、身振りなどが言葉を補ってくれる。また、会話は社交の原則に守られる。文章では言葉を補ってくれるものはない。文章は会話のように社交ではなく、認識である。

4 日本語を外国語として取扱おう

日本語を「母国語」として甘えず、一つの外国語「日本語」として客観的に扱おう。言葉に使われず、言葉を使おう。

5 「あるがままに」書くことはやめよう

文章は制作者が順々に書き、享受者も順々に読む。写真のように、瞬間的に作られ、瞬間的に見られるものではない。この「順々に」という時間的過程がポイントであり、どういう順に物事を書いていくかという話になる。そこに文章の筆者の認識が関わってくるる。文章は、自然(あるがままのもの)ではなく、人為(人間の認識のもとになされるもの)である。
文章のスタイル、つまり物事を認識するスタイルは一度できあがって終わりというものではない。新しい現実や質の違う物事に出会う度に、古いスタイルは役立たずになる。その場合はスタイルを改めていかなければならない。

6 裸一貫で攻めて行こう

社会に通用する文章として、最低でも以下の二つは逸脱しないようにしよう。

  1. その分野の先行研究、主要な学説、言説。既存の説を否定する際も、大体の内容を知った上での否定でなければならない。
  2. 社会のアクチュアルな問題の把握。自分の文章がどういう社会状況で読まれ、役割を果たすかついて知っておく必要がある。

裸一貫で攻めるというのは、自分の本音をダイナミックに表現するということである。引用なども、自分が文章に主体的に取り組んでいる時に初めて意味をなす。

7 経験と抽象との間を往復しよう

経験と抽象との間は、常に往復する必要がある。どちらかの世界に引きこもることはよくない。筆者の側が経験の世界と抽象の世界を往復することで、読者も同じことができる。

8 新しい時代に文章を生かそう

文章が文字で成り立つことは明らかだ。しかし、文字だけがあった時代と、ラジオや映画、テレビがある時代とでは、文章が果たす役割に違いが生じる。
文字だけの時代では、文章には不向きなものもやむを得ず文章で表現するしかなかった。今は、映像という選択肢もあるので、文章よりも効果的に伝わる場合は映像に任せればよい。何もかもを文章で表現していた時代は終わろうとしている。
つまり、これからの時代、文章は映像化できないものの言語化に全力を傾けることができる。映像化できないものとは何か。一つは、抽象的概念、もう一つは未来である。
抽象的な言葉でイメージを表現し、そのイメージを他人の内部に生み出すということが文章の本質である。映像の時代に生きる私たちは、過去の人々とは違う仕方で、この本質を大切にしなければならない。

本論

本書が名著たる所以は、単なる技術論に留まることなく、文章を書くに当たっての心構えを丁寧に説いているからだ。特に、全体を通して読み取れるのが「文章を書くことは物事の認識の問題である」という主張である。これは本当に大切なことだ。
「文章を書くことは物事の認識の問題である」、このエントリを読んだらここだけでも覚えて帰っていただきたい。
例えば3章では、接続助詞「が」の使用について説かれている。これも言い換えれば、言葉の用法の背景にある物事の認識について論じているのだ。
その他の章で書かれていることも、正しい文章を書く際には、その前段階である物事の認識を正しくする必要がある、という趣旨を元にしている。
さて、8章で書かれているような社会状況は、Web時代において何か変化しているだろうか。僕は、文章と映像の二つが人々の表現活動の二軸であるという構造にはさして変化がないと思う。紙媒体の文章に対するテレビのように、Webではブログに対する動画や配信がある。
現在のところ、容量・トラフィックの問題もあるので、映像という媒体を完全に自由に選択できるわけではない。しかし、Youtubeやニコ動等の動画サイト、Ustやニコ生等のストリーム配信サイトといった、映像メディアを個人が使用することが簡単になっていることも確かだ。
本書で言われているように、僕たちは自分が伝えたいことを最も効果的に伝えることができるメディアを選ぶ必要がある。映像にできることは映像に任せよう。Twitter等のミニブログがふさわしい場面もあろう。それでも、現代において本書が提示したような文章の役割を果たすメディアはブログではないかと思う。僕がブロガーに本書を勧めるのはそういうわけである。
最後に、ブロガーだけでなく、抽象的概念や未来を文章で表現しようとする全ての人にとって、この本が役立つことを著者に代わって祈る。