大学は時間を買うところ

ひとしきりあって。

要は、現行の教育制度のもとでは「とりこぼされる」人間が多いわけですから、そういう人たちのための「別種の選択肢」を、社会がどこまで用意できるかという話なんですよ。ニートや引き籠もり・荒れた中学高校のニュースを聞く度に、俺が思うのはそういうことなんですね。

たけくまメモ : 独学に勝る勉強はない(2)

現在の制度上では、やはり大学が一番広いとりこぼしの受け皿になってると思います。たけくまさんの文脈で「とりこぼしがない」とは何を意味するかというと、最終的に皆が何らかの職に就き、社会に出て生き生きと働くことですよね。違ったら申し訳ないです。

たけくまさんのブログでは自信の経験から、教育に専門職的なアプローチで攻めているように見受けられます。この記事では、一般、総合職的なアプローチとして、僕の大学生としての経験から、上記のような受け皿としてみた時の大学と、そこで過ごす時間、努力の場という側面について書いていきたいと思います。

まず僕の持つイメージを述べると、四年制大学というものは、一つには汎用的な人間を育てる場所であります(これは文系学生だけかもしれません)。だから、卒業して就職する際にも多様な業種職種に就くことができますよね。商社で経理をする人も、保険の営業をする人も、四年制大学を普通に出ただけで、他に特別なことはしていないと思うのです。

けれども、汎用的な人間を育てるっていうのは、大学があれとそれとこれをしなさいと教えることではないんです。四年制大学卒業資格というもの自体が、その人間が汎用性を持つことを示しているんですね。だから、一般、総合職に就くにあたって、大学在籍中に何を学んだかなんてことは二の次です。新卒者は企業になんらの専門性も問われません。ここまでは既に言い古されていることだと思います。

しかし考えてみると、いかに一般、総合職の間口が広いとはいえ、一流企業に就職できる者はわずかですよね。というか、一流でもそれ以外の企業でも、採用活動をするにあたっては、同じ四大卒資格保持者に優劣をつけます。そこで自分を上手にアピールできた者が優れた者として採用されるわけです。では、そのアピール材料は何かと言えば、自分の経験ということになります。じゃあその経験はどこで得られるものなんだろうと考えると、大学で過ごす時間、となる。また話が大学に戻ってきました。

四年制大学教育機関としての最大の特徴は、そこで過ごす四年間という膨大な時間にあると思います。林望さんの著書、「知性の磨き方」から引用して説明したいと思います。

…(前略)…大学で遊ぶか遊ばないかは、本人の自由なんだ。大学というところはモラトリアム=人生の猶予期間であって、絶対これをしなきゃならんというものがない。自由裁量でどう使ってもいい時間というものを四年間、何百万という金で売ってあげましょうという、そういう機関なんですね。そういうふうにもう、はっきり割り切っていい。

だからこの時間に様々な経験を積み、それをアピールして企業へ就職する道を作るということが重要となるわけです。もし一般企業に就職しようと思うのであればね。ここでの問題は、たけくまさんが言うように、その時間を無為に過ごすことは無駄なんじゃないかということです。それについても林さんは触れています。

しかしね、そういう自由の中にあるということを自覚する人と自覚しない人では大きな違いが出てくる。

書籍ではこのあと、とにかく自分が何かをしたいかという方向性を見つけることが大事で、それはできるだけ若いうちに行うことだ、と続いています。「知性の磨き方」には他にも興味深い内容がたくさん書かれており、大変有意義な本なのでまた別の機会にレビューしたいと思います。
自覚しない自由の中では、自分が進む方向性を見失ってしまいがちです。その状態は確かに無為で無駄と言っていいかもしれません。ただ、自分の方向性を見つけるのは決して講義の中からだけではありません。講義に出ていない、真面目に聴いてないから大学に行っている意味が無く、無為で無駄だとは言えないことを付け加えておきます。 話を大学で過ごす時間のことに戻しましょう。何にせよ、四年間という時間をお金で買う感覚、これをやっぱり大事にしたい。その時間は各人が自分の方向性を見つける時間に充てるのが一番有効な使い方じゃないかと思うわけです。そして、方向性決定の猶予期間としては、僕は現在の四年制大学はそこそこ上手く機能してると思うんです。ただ、努力の場としての大学には向上させていくべきところがあります。次はその話に移ります。

方向性が一般、総合職に向くか、その他の職に向くかは各人各様です。しかし、決定した方向性にある程度努力する必要があるのは皆同じでしょう。そこで、その努力をどれだけ助けてあげられるかに、大学の質が関わってきます。

同じことを繰り返し述べます。ベクトルの向きはどんな大学にいても自由に決められるかもしれません。けれども、ベクトルの量、その人の素質や能力を伸ばすにあたっては、図書館等の設備面や、教授等の人的面での援助が必要であり、これは大学に入学してからではどうしようもないんですね(単位互換等の例外あり)。

だから、中高生時代にやることが決まっていない人は東大か京大といったレベルの高い大学を目指せ、というのが僕のスタンスです。実際、何がしたいか分からない人が行くところなんですよ、東大京大っていうのは。もしやりたいことが見つかって、そうだ俺はこれがやりたいんだ、よーしがんばるぞ、となった時に、最高の環境で努力できる、その環境のために入学するところです。この努力の場として大学を見れば、まだまだ格差があり、質的向上が望まれます。

さて、上記のような仕組みで、大学は方向性のない多くの高卒者を入学させ、お金をもらうかわりに時間を与えて方向性の決定を促し、方向性を持った学生に努力の場を与えているわけです。これでかなり「とりこぼし」は少なくなっているはずです。それでも、方向性の決まらない者、あるいは努力の場が無く進むことができない者が出てきます。どうしたもんでしょう。

たけくまさんは「高校以外の選択肢を社会制度として増やせ論」を唱えています。僕が考える現状以上の教育制度は、やはり大学のスタイルを基本としたものです。高校にあたる時点から大学なみの自由を与えて、方向性の決定を促し、良質な努力の場を提供する。ただし、方向性が決定するまでは、授業料にあたるものは一切取らない。もしくは格安にする。時間を無料に近い値段で与えます。お金を取るのは、方向性が決まり努力する者への援助に対してのみです。これ、けっこう面白いと思うんですけど、どうでしょうか。

大学は時間を買うところ、買った時間の中で身につける力が、詩になるもの。
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