「憧れのあとさき」Web版(下)(「恋愛ゲームシナリオライタ論集2 +10人×10説」所収)

4.作品論

第二章ではタカヒロのプロフィールを、第三章ではタカヒロのシナリオライティングを論じてきた。本章では、それらが実際に「明るく楽しい」キャラゲー制作に貢献していることを、タカヒロ作品の読解を通して確認する。
既述のように、タカヒロ作品はホームコメディと学園コメディに分類できる。しかし、本章ではきゃんでぃそふと作品からみなとそふと作品への通時的発展を重視し、発売順に各作品を見ていくこととする。筆者は、特にタカヒロ作品の集大成として『まじこい』を肯定的に捉えており、それ以前のタカヒロ作品読解においても、『まじこい』に通じる要素を発見することを主な目的としている。そういう意味で本章は『まじこい』ありきの作品論となっているが、一般的なタカヒロ作品の通史として読まれることにも配慮したつもりだ。

4.1.姉、ちゃんとしようよっ!

2003年、ブランド「キャンディソフト」が「きゃんでぃそふと」と名を改め、初めて世に送り出した作品が『姉しよ』である。「ヒロイン全員姉属性」を謳った美少女ゲームとしてヒットした。*1原画家は白猫参謀であり、以後『きみある』までのタカヒロ作品は全て彼が原画を担当する。
ワールドは2003年の鎌倉であり、別のゲーム企画の設定を引き継いだ影響で、ルートによっては超自然的な事象が起こることがある(『姉しよ2』も同様)。キャラクターは主人公の柊空也、メインヒロインの柊6姉妹、その他サブヒロイン・サブキャラクターで構成される。柊家というメインコミュニティでヒロイン達と過ごす日々がストーリーとなる。
本作が姉ゲーとして高く評価された理由として、ヒロイン達がキャラクターとして個性的であること、キャラクター同士の掛け合いがコメディとして面白く、コミュニケーションがキャラクターを魅力的に見せること、恋愛関係において姉属性の不変性を保ったことが考えられる。

4.1.1.個性的な姉達

『姉しよ』のヒロイン達が個性的であることについては論を待たないだろう。姉という共通の属性を持ちながら、6人のヒロイン達がそのキャラクターを被らせることなく存在している。本作の時点では、キャラクターのバイタリティが十分に発揮されたとは言えない。また、サガのような性質は柊雛乃や柊巴に散見される。

4.1.2.柊家におけるコミュニケーション

本作の特徴は、それぞれの姉が個別的に魅力を発揮するのではなく、コミュニケーションによってその姿を魅力的に映すということだ。例えば、柊高嶺は主人公や巴に対しては強く出るけれども、憧れの存在である柊要芽には弱く、また柊家というコミュニティの外にいる人間に対しては「外交モード」という素の性格からかけ離れた状態を見せる。
このような多面性は他のキャラクターについても同様のプロセスで描かれる。第三章で示した通り、コミュニケーションによってキャラクターは様々な他者との関係性を表し、自身をアイデンティファイする。主人公とヒロインとしての二者関係はその中の一つだ。プレイヤーは総体として豊かなアイデンティティを持つキャラクターを確認し、魅力を感じる。

4.1.3.姉属性の不変性

タカヒロ作品におけるヒロインは、主人公から見て基本的に上位に存在する。タカヒロが描く恋愛を単純化すれば、何らかのポイント(姉弟関係、強気、主従関係、武士の凛々しさ)で「一段上の女性」であるヒロインを攻略し、「落とす」(惚れさせる)話である。タカヒロはそのストーリーにおいて、上位に存在したヒロインを落とす喜びをたびたび強調する。特に主人公がヒロインとのセックスにおいてバック(後背位)の体位を取る時、その喜びは最も強く表れている。*2『姉しよ』の柊要芽ルートなどは「一段上の女性」を落とす話の最たる例であるけれども、極端すぎる描写があるために『姉しよ』やタカヒロ作品全体に対する誤解を招く恐れがある。解説が必要だろう。
本作はいわゆる「抜きゲー」よりの作品として制作されており、以降の作品とはゲームデザインのレベルで違いが見られる。一番主要なヒロインである柊要芽は、ルートに入るための制限こそ掛かっていないものの明確にラスボス(最終攻略対象)として存在し、彼女と恋愛関係になることを最終目的としてゲームがデザインされている。主人公はゲーム冒頭で受けた要芽からの性的暴力に対抗できる強靱な精力を得るために他の姉と性行為を営み、その過程でまた恋愛が発生する。*3このような事情から、本作における主人公と要芽の力関係は危ういバランスの上に成り立っている。作中で主人公と要芽が行う性行為のほとんどは、どちらかが優位に立って相手を隷属させるようなものだ。これは一見、先ほど述べた「一段上の女性」を落とす恋愛に合致しているかに思える。
しかし、タカヒロ作品の恋愛において「一段上の女性」を落とすということは、決して性的に隷属させて主人公より「一段下の女性」に落とし込むことを意味しない。攻略後においても、ヒロイン達は「一段上の女性」で在り続けるのが原則である。『姉しよ』においてヒロインが女性上位であるポイントは「姉属性」である。「一段上の女性」で在り続けるために、彼女達は主人公と恋愛関係になっても姉であることを捨てない。それをもっとも簡潔に示しているのが、要芽ルートのエンディングにおける要芽の台詞である。

要芽「私のやりたい事は、あなたを守ること。例え、つまらない、前時代的、と言われようとも。それでも。一緒にやっていきたい」
要芽「姉として、女として」
(『姉しよ』要芽ルート エンディング「姉ちゃんとしようよ」)

攻略されて主人公と恋人になった後も、ただの女になる(「一段下の女性」になる)のではなく姉(「一段上の女性」)で在り続ける。姉ゲーとして『姉しよ』が高く評価された最も大きな理由はこうした「姉属性の不変性」にある。*4

4.2.姉、ちゃんとしようよっ!2
4.2.1.『姉しよ』からの継承と発展

『姉しよ』の好評を受けて2004年に発売された続編が『姉しよ2』である。ワールドは2004年の鎌倉で、前作の各メインヒロインとある程度関係を進めつつも誰とも結ばれていないという設定だ。犬神帆波と犬神歩笑という二人の姉妹がヒロインとして追加され、明るい主題歌が付き、要芽に復讐するという目標がなくなった本作は、前作よりもいわゆる「萌えゲー」の色を濃くして
いる。
レビュアーの9791は『姉しよ2』が『姉しよ』から姉属性の不変性を継承した上で姉弟愛の描き方を発展させたとしている。ここに筆者が付け加えられることはほとんどないように思う。

この作品の場合は、物語上では、あくまで「姉」を描写し、「姉」が「女」に成り下がりません。ヒロインは「姉」であることが前提であり、そのためには、Hシーンすら姉の性格付けのために利用するほど(ですから、本番が無いHシーンもありますね)の徹底ぶりです。この作品ではたとえ「姉」とラブラブになろうが、主人公の「姉」達への呼び名は変わりませんし、その関係は、姉弟からの発展形として扱われます。しかも、その姉弟愛の描き方が8通りあり、それが各々ヒロインの性格をよく表したものに仕上げているのですから、「姉しよ」のキャラクター造形の巧みさには凄まじいものがあります。
[…]
私が、このシリーズ、特に「2」を高く評価するのは、決して多くないテキスト量で、立場上同じ筈の「姉」を8通り個性を確立させただけでなく、ここまで恋愛論とその思考法を比較している点です。物語そのものは、コメディ色が強く、ストーリーも褒められたものではありませんが、「姉」8人書き分けきった・・・という点だけでも、それは評価に値します。シナリオ偏重の潮流の中、キャラを配置すれば、キャラを喋らせれば、勝手に物語が紡げそうなゲームは珍しく、このようなテキストを素直に書ける人というのは、非常に貴重だと思います。この作品から見れば、「FateType-Moon)」や「Air(Key)」等は、エロゲーの亜流です。本来のエロゲーとは、物語を「エロく」楽しむものであり、物語の粗が気にならない、ご都合主義を受け入れられる雰囲気を作るということは大変なことです。
*5

『姉しよ2』は『姉しよ』の要芽のようなラスボスを配置せず、8人という数多い姉達のルートを平等に存在させているから、広く薄く散漫な印象を受けるのは確かだ。各ルート内のストーリーも、主人公とヒロインが結ばれる時点で終わってしまうものが多い。
しかし、エピソードの連結構成に不足があるとはいえ、各エピソード単位では二人が恋人になるまでの過程が前作以上にしっかりと描かれていると言える。タカヒロは、それぞれのヒロインが持つイメージをコミュニケーションによって巧く更新し続けた。その結果として8人の姉の在り方が明確に差異化され、総体としてこのゲームを豊かにしていることは間違いない。

4.2.2.歩笑と空也

各ルートで示されるヒロイン達の恋愛観や人生観を比較検討するのも面白いけれど、本論では特に歩笑ルートを考察してみたい。このストーリーからは、タカヒロ作品においてヒロインと主人公が問題を解決する基本的な図式が読み取れる。
歩笑はかつて空也に物を贈るために海に潜って溺れかけたことがあり、それがトラウマとなって以来海に入ること(泳ぐこと)を体が拒むようになってしまった。歩笑ルートにおいて、彼女はそのトラウマを克服しようと努力し、空也もそれに協力する。最終的に歩笑は再び海で泳げるようになるのだが、それは主人公が直接的に歩笑のトラウマを除去したからではない。歩笑は、目の前で溺れた秋山いるかを助けるために、なりふり構わず海に飛び込んだことによってトラウマを克服した。

ぽえむ「気合で! 入ってしまいさえすれば恐くない……」
ねーたんはジャブジャブと泳ぎ始める。
俺はいつでも助けられる準備をしながらねーたんを見守った。
(『姉しよ2』歩笑ルート 8月7日)

ここでは、行動によって心理が更新されていることも重要だが、空也が歩笑の問題を解決する主体ではないことを最たる特徴として捉えたい。歩笑が自分の問題解決に対して主体的になる一方で、空也はただヒロインの側で補助に徹し、歩笑が問題を解決する過程を見守る。前章の言葉を用いれば、ヒロインが主体的キャラクターとなり、主人公が主観的キャラクターになっていると言える。これがタカヒロ作品で問題解決が行われる際に見られる、ヒロインと主人公の基本関係である。

4.2.3.姉属性で統合される柊家と犬神家

今作で追加された2名のヒロインである犬神姉妹は、「ライバル」や「お隣さん」という形で柊家(柊6姉妹)の比較対象として機能している。主人公が属するコミュニティと対照的なコミュニティを用意する手法は、以降の作品においても踏襲される。『つよきす』の竜鳴館学園2-Cに対する2-A、『きみある』の久遠寺家主従に対する九鬼家主従、『まじこい』の川神学園2-Fに対する2-Sなどがそうである。相似形のコミュニティとコミュニケーションすることで、キャラクター達は互いにその在り方を差異化され、魅力を発揮していく。
ところで、『姉しよ』と『姉しよ2』には三人以上で行われる性行為(いわゆる「nP」、「姉妹丼」)が数多く用意されている。『姉しよ2』にはハーレムルートに該当するものも存在する。『つよきす』以降にはハーレムルートがない。このような特徴は、『姉しよ』が抜きゲーよりの作品として生み出されたことにも由来するけれども、筆者は姉属性の特性から説明するのがふさわしいかと思う。
姉という属性は、『姉しよ2』のメインヒロイン達を「お姉ちゃん達(柊6姉妹+犬神姉妹)」という家族的なコミュニティとして一つにまとめる機能を持つ。彼女らはお姉ちゃん達であるからこそ、弟である主人公空也に対して一丸となった性行為ができると考える。*6

4.3.1.学園コメディの原型

2005年に発売された『つよきす』は「ヒロイン全員強気」というコンセプトで制作された。しかし、実際には「強気」よりもいわゆる「ツンデレ」属性の流行を意識して宣伝され、受容された。本作はタカヒロが書く学園コメディの原型である。
ワールドは2005年の松笠市(現実の横須賀市に該当する)である。『姉しよ』シリーズの鎌倉に比べると、『つよきす』の松笠は街の様子がより詳しく描写されている。しかし、松笠が一つの街としてコミュニティ(セーフティネット)たり得ているかについては疑問である。コミュニティには構成員が必要であり、本作で街の構成員として描かれている人間はカレー屋の店長くらいしかいないからだ。
本作でメインとなるコミュニティが、竜鳴館学園と対馬ファミリーである。主人公達が通う竜鳴館は、漫画的に人間離れした武力を持つ橘平蔵学長の管理下にある学校で、自由な校風を持つ。対馬ファミリーは主人公対馬レオとその幼なじみである蟹沢きぬ、鮫氷新一、伊達スバルが構成するグループだ。
竜鳴館をさらに細かく見ていくと、対馬ファミリーが所属するクラス2-C、そのライバルクラスとして認知されている2-A、対馬ファミリーとその他のヒロイン全員が構成する生徒会(場所としては竜宮という生徒会室)という三つのコミュニティがある。9791は『つよきす』において、 「“家族”と呼ばれるイメージの機能不全」が 「レオの家と竜宮とを、単なる生活空間から“家族がまともに機能していない子供達の寄り合い所帯”へ切り替え」、その中心人物としてレオが存在すると指摘している。*7
こうして舞台を家から学校に移すことで『姉しよ』シリーズよりも多層的なコミュニティを作ることに成功した『つよきす』は、各コミュニティ内/間でキャラクターを積極的にコミュニケーションさせている。竜鳴館においては各種学校行事が盛んであり、その手のイベントによって2-Cと2-Aが対抗したり生徒会が活動することでストーリーが盛り上げられる。本作のキャラクター達はそのようにして多面的な魅力を形成している。
竜鳴館は教育の一環として学生同士の競争を煽りながらも、決して「明るく楽しい」日常が失われないような配慮もしている。筆者はそれをもって竜鳴館をセーフティネットとして評価している。ただし、tdaidoujiはこのような舞台装置としての学校の機能よりも、キャラクター達が学校を出ようとする力の方が勝っていると見る。

かつて小世界として完結していた学園は現在では殆ど成立しなくなっている。つよきすも常にヒロインたちが学園の外側に出ることを前提にシナリオが展開していく。エキセントリックな学園長もエキセントリックな校風も派手なイベントも強力な学生自治も、ほんのいっとき期間限定の世界を維持するための道具立てではあるのだが、逆に言えばそのようなインパクト重視の、受け手が慣れてしまえば次第に機能を失っていくしかない道具立てをそれと理解しながら用いることでしか結界は維持できない。*8

筆者も竜鳴館が期間限定のコミュニティであることは了解しているし、セーフティネットといっても『つよきす』において竜鳴館が果たしている機能は実質的に学生に対するモラトリアムの提供くらいしかないと思う。後述するように、コミュニティが持つセーフティネットとしての機能は『まじこい』でさらに発展する。そこでは、学生だけでなく大人に対しても「明るく楽しい」世界が保証されるようになった。しかし、「大抵の人は幼いままで大人になります。50歳でも60歳でも10代の子どもと基本的には変わりません」*9というtdaidoujiにとっては、そのような発展もモラトリアムとして一括りにされるだろう。モラトリアムの定義に対する意見の相違はあるものの、筆者もtdaidoujiが指摘するような、セーフティネットたるコミュニティから出ていこうとするキャラクター達に関心がある。そのような動きもまたバイタリティの一つの表れであろう。

4.3.2.自立するキャラクター

キャラクターデザインにおいて、タカヒロは本作から男性キャラクターにも著名な声優を配するようになった。さらにボイスの面白さを意識してキャラクターをコミュニケーションさせることで「明るく楽しい」掛け合いを作り出している。
それはさておき、本作では前述したキャラクター達への祝福が特に顕著である。彼らは皆一様にバイタリティを備え自立して生きている。また、本作の受容史として、ヒロインのツンデレ属性についてtdaidoujiが記した論考を取り上げる。

よっぴーが主人公と結ばれなくても、彼女は今その場で、おそらく平均よりは遥かにアグレッシブで楽しい学園生活をごく当り前に送っている。それは、それ自体でかけがえのないものですし、そうした学園生活の経験が彼女のその後の人生に何の影響も与えないとは思いません。*10

バイタリティとは、どんな状況においてもその状況なりに前を向いて生きていく力である。引用部分の佐藤良美を始めとして、タカヒロ作品において主人公と結ばれなかったヒロイン達がそれでも不幸な者として終わらない(とプレイヤーが想像できる)のは、彼女らが皆一様にバイタリティを持って主人公から自立しているからだ。同じ理由で、主人公達がどのルートに進んでいったとしても、彼らはそのルートを肯定的に捉えて生きていく。
良美ルートには『白詰草』と『片手に白百合、片手に薔薇』という二つのエンディングがある。前者が正規的なエンディングであり、後者はバッドエンディングに近いけれども、後者のエンディングもまた一つの道としてレオの主観からは肯定的に描かれている。このようにどのルート(人生)をも肯定的に捉えて生きるバイタリティは『まじこい』へと引き継がれていく。
自立というキーワードは、ツンデレとしてのヒロイン達の在り方にも繋がっている。

さておき、「つよきす」の優れているのはツンデレ理解です。ツンデレという語をヒロインの人格に押し付けることを避け、「ツンツンからデレデレへ」「男性主人公にだけデレデレ」といった定義されている行為を全て周囲の状況、シナリオ展開に依存するものとして読み込んでいく。[…]シナリオと主人公は彼女たちを突き放します。デレデレの状態をゴールとしないのですね。*11

本作のメインヒロインルートにおいては、レオとヒロインが恋人となった後も話が続いていく。ツンデレとして見たとき、彼女らは付き合うまでがツンツンした状態であり、付き合った後はデレデレした状態になるけれども、タカヒロはそこからさらにストーリーを一ひねりさせている。『つよきす』における恋愛は、主人公とヒロインが互いを自立させる過程で展開する。引用先で語られる椰子なごみルートと良美ルートは、「彼女たちを突き放す」ストーリーである。
鉄乙女ルートにおける恋愛が成就するまでの過程、乙女のトラウマである雷への恐怖*12などは重く書かれない。むしろそのテキストはネタ混じりで軽くなっている。そうした小事件を経て結ばれた後に、レオが乙女の在り方を「一段下の女性」に落とし込もうとすることから問題が起こる。結局、乙女は「レオの姉(従姉)」として「一段上の女性」である不変性を再確認して満足する。霧夜エリカルートも同様で、エリカはレオの恋人にはなっても、レオの中の霧夜エリカ像には囚われない。きぬルートはきぬが直情型で裏表がないために二人の関係自体は終始バカップルである。その分の屈折や葛藤はレオとスバルとの間で起こり、スバルが自身の夢を叶えるために対馬ファミリーから去るという形で自立していく。*13大江山祈ルートでもレオは祈を変質させることはない。むしろ祈の在り方はレオの「テンションに流されない」という平常時の在り方を突き詰めたものとして肯定される。これらのルートは逆にレオが彼女たちから突き放されるストーリーとなっているし、『姉しよ』で説明したような不変性を読みとることもできる。
また、レオは最初「テンションに流されない」ことを信条として主体性を喪失しかけたキャラクターとして描かれる。つまり、自分の問題に対しても主観的キャラクターとなり、主体的キャラクターではなくなっている。そこから、ヒロインや親友と交流し、彼らが主体的に生きる姿を主観として見るうちに主体性を取り戻していく節がある。『つよきす』の時点では、獲得した主体性をほとんどヒロインとの恋愛に向けている(それが主人公自身の問題だからだ)ために理解しにくくなっているけれど、主人公が自身の問題において主観的キャラクターから主体的キャラクターへと変貌することもキャラクターの自立として重要である。*14
こうして互いを自立させるキャラクター達が青春を謳歌するストーリーは、群像劇の様相を呈してくる。この群像劇的なストーリーは、『まじこい』に継承されていく。

4.4.君が主で執事が俺で

きゃんでぃそふとを脱退したタカヒロみなとそふとを立ち上げ、再び「明るく楽しい」キャラゲーを掲げてゲーム制作を続けていった。2007年にみなとそふとがブランド処女作として発売したのが『きみある』である。本作は制作期間の関係でシナリオが十分に練られていたとは言えず、後に『きみあるCS』において加筆修正がなされた。

4.4.1.家族の再構成

2007年の七浜市(横浜をモデルとした都市)が本作のワールドである。メインとなるコミュニティは七浜の住宅街にある久遠寺家だ。久遠寺家は、主と従者から構成される家族的コミュニティである。主は久遠寺森羅、久遠寺未有、久遠寺夢の三姉妹である。両親を亡くした久遠寺三姉妹は大佐(田尻耕)を親代わりの執事とした後、同様に身寄りがなかった朱子南斗星、ハル(清原千春)を個別に従者としてスカウトしてきた。ここに、主人公上杉練とその姉上杉美鳩が加わる。
上杉姉弟の父である上杉巌は練の母を亡くし、再婚相手である美鳩の母(美鳩は連れ子である)も亡くし、自暴自棄となり練に家庭内暴力を振るうようになってしまった。二人はそれに耐えかねて家出し、久遠寺家に拾われた。
ホームコメディとして『姉しよ』シリーズの系譜を汲む『きみある』だが、上記のように久遠寺家は家族を失った経験がある者達が構成するコミュニティであり、家族ではなく疑似家族である点で柊家や犬神家とは異なっている。そして、疑似家族であるが故に、彼らは柊家や犬神家以上に相互扶助を行い、家族的に振る舞おうとする。久遠寺家は家族的コミュニティとしてセーフティネットの機能を発揮しているが、本作ではそれが自然にあるものではなく、意志を持って作り上げ獲得するものだと示されている。
愛する者を複数回失い絶望してしまった巌は、『姉しよ』の要芽と同じ歪みを引き継いでいると言える。空也は要芽を熱烈に愛することでその歪みを取り除いたが、練は暴力を受けたことから父を嫌悪しているため、巌を助けてくれる者はいない。それは「暗く悲しい」ことではあるけれども、その辛さに甘えず練との和解を模索しろと森羅や美鳩は巌を説き伏せる。これは、単に家族を持つ者が持たざる者へそのダメさを説教をしているわけではない。久遠寺家の面々がそうであったように、きっと誰にでも(巌にも)「暗く悲しい」喪失を乗り越えて家族を再構成し、前向きに生きていくバイタリティが備わっている、ということだろう。本当に救いようがなくダメな人間だとすれば、巌は見捨てられるはずだからだ。
セーフティネットを一度失い「暗く悲しい」世界に落ちようとした者達が、それでもバイタリティを持って再びセーフティネットを再構成し、「明るく楽しい」人生を歩んでいこうとする。コミュニティとセーフティネットという角度から見る『きみある』とは、そのような物語である。

4.4.2.他者からの感化、イメージの更新

さらに、『きみある』のストーリーに見られる他者との関係性の特徴について述べておこう。
一つには、他者からの「感化」がある。例えば、森羅ルートにおいて巌を乗り越える練の姿を目の当たりにした森羅は、それをきっかけに偉大な父親という存在から自立している。未有ルートでは、身体への不安から生まれた未有の不老不死願望を、未有が発明したロボットであるデニーロが自爆という形で喝破する。デニーロの亡骸を前にした未有は考えを改める。*15
その他の感化のパターンとしては、アナスタシア・ミスティーナのエピソードがある。アナスタシアはマゾヒストとして自身が受けるあらゆる苦痛を喜びとして感じる、ある意味で無敵の存在であり、稲村圭と共に夢の親友だった。その彼女が、夢ルートにおける夢と圭の仲違いを見て、初めて苦痛を告白する。自分の痛みは喜びであっても他者の痛みは喜びではない。これも、他者の姿から受けた感化と捉えてよいだろう。
もう一つ、ストーリーから発見できるのが、キャラクターが他者との関係性においてその姿を更新し、魅力を発揮することである。これは『姉しよ』から『つよきす』までと同じくコミュニティとその中で行われるコミュニケーションによってキャラクターのイメージが新たになるということである。
森羅ルートでは、「巌の息子」や「美鳩の弟」であるという練のアイデンティティに、「森羅の執事」であるというアイデンティティが加わり、それが練をより強く魅力的にしていることが言及されている。

巌「ふざけるな、どんなに開き直ろうがオレをけなせばけなすほど、息子であるお前自身が惨めになっていくんだ!」
森羅「だが、上杉練はこの私の執事でもある!」
(『きみある』森羅ルート 5月12日)

「でもある」という言い方には、親子関係の不変性を認めつつも練をその関係に縛らせず、執事として新たにその姿を更新させたという森羅の自負が見られる。
また、美鳩ルートにおいても、巌は美鳩が実家にいた頃と比べて性格が変わっていることに驚く。これに対して美鳩は、彼女が本来そういう性格であり、それまで発揮する機会がなかった性質が久遠寺家というコミュニティを獲得することで露わになったのだと説明する。巌が持っていた美鳩に対するイメージは更新されている。
このように、『きみある』のストーリーからは、他者との関係性における感化やキャラクターイメージの更新を見出すことができる。

4.5.真剣で私に恋しなさい!

2009年、みなとそふとは武士娘恋愛ADVとして『まじこい』を発売した。本作は十分な期間と資源をかけて制作された、タカヒロの集大成とも言える作品である。原画家はwagiが担当した。筆者は『まじこい』をタカヒロの、またはみなとそふとの、あるいは現代における美少女ゲームの、一つのスタンダードであると認識している。

4.5.1.「川神」というセーフティネット

『まじこい』のワールドは2009年の川神市である。川神は現実の川崎市偽史的な想像力をもってリファインした都市であり、武術寺として有名な川神院(川崎大師がモチーフ)を力学的な中心としていること、武士の家系が多いことなどが特徴だ。*16川神院のトップ川神鉄心は川神学園を運営し、そこに主人公達が通ってラブコメディを展開する。つまり、本作のメインコミュニティは川神学園≒川神院≒川神市であり、これを本論では鉤括弧付きの「川神」と呼ぶ。タカヒロ作品はこれまで家族や疑似家族、学校をメインコミュニティとして据えてきた。本作でも学校としての川神学園は重要なコミュニティであるけれども、それ以上に「川神」が持つセーフティネット機能に注目したい。川神学園の運営母体である川神院の影響力が街全体に及んでいることによって、「川神」は都市規模のセーフティネットとして働いている。
これは、『まじこい』が大作化して立ち絵付きのキャラクターが40人を超えたことと無関係ではない。本作には川神市の商店街で本屋を営む店長や、仲見世通りにある和菓子屋の娘である小笠原千花、教師と並行して何でも屋をやっている宇佐美巨人など、街に根を下ろしたキャラクターが数多く存在する。それぞれのキャラクターの生活圏をしっかりと記述することで、無機的に描かれがちな街というコミュニティが有機的なセーフティネットとして機能する。
さて、タカヒロ作品の学園コメディのストーリーを単純化すれば、セーフティネットが用意された上での競争となる。セーフティネットによってキャラクター達を守りながら競争させ、そこで生じるコミュニケーションから恋愛や青春を描いていくのがタカヒロのスタイルだ。『まじこい』においては、「川神」の管理下で様々なイベントが行われるが、それらは多くの場合競争や闘争である。川神百代ルートの川神大戦がその最たる例だ。
つよきす』作品論で述べたように、筆者はセーフティネットをモラトリアムから弁別している。キャラクター達が挫折や失敗をしても再起できるのは、彼らが若者だからというだけではない。タカヒロ作品全般において変えられない過去や不変性の象徴として存在する親世代のキャラクター達も、『まじこい』では人生をやり直せる再起可能性や可変性を持っていることが示唆されている。そのやり直しに際しても『きみある』で見てきたような他者からの感化が存在する。*17
さらに、「川神」は「川神」に害を為そうとした釈迦堂や板垣一家を再びその内部に取り込んでいる。かつての敵ですら吸収していく「川神」のセーフティネット機能は恐るべきものである。板垣竜平だけはその網に囚われず、自身のサガにしたがって街を出る。そのようにセーフティネットを抜けて危険な外界へと出ていくキャラクターの動きも、タカヒロは肯定的に書いている。
クリスティアーネ・フリードリヒ(クリス)のルートは、主人公とヒロインがセーフティネットの外に出て行くストーリーとして読んだ時、『まじこい』の中でも異質なルートとなる。序盤こそ川神学園の中で繰り広げられる典型的ラブコメディであるけれども、中盤以降でクリスの父フランク・フリードリヒに交際を反対された二人は川神学園を退学し、自立した生活を始める。さらにクリスが父に連れ去られれば、大和は風間ファミリーと呼ばれる仲間達と共にドイツまで彼女を奪還しに行く。退学してから最終的に復学するまでの間、「川神」のセーフティネットから完全に独立したわけではないし、風間ファミリーというコミュニティのセーフティネット機能に頼ったことも確かだ。それでも、学校を辞めて海外にまで飛び出すという大和の姿は、葵冬馬というキャラクターの主観を通して肯定された。
冬馬は大和のライバルであり、また『まじこい』ラストルートにおけるラスボス的存在である。彼は各メインヒロインルートのエンディングにおいても悪の道に走ったことを思わせる記述がある。しかし、クリスルートのエンディングにおいては何処かへと姿を消す。冬馬が生き方を変えたのは、愛に生きる大和の姿に感化されたからであることがクリスルートのテキストから想定されるし、『クリスアフター』*18においてもそのように書かれている。
クリスルートでは「川神」と風間ファミリーという二重のセーフティネットが大和を守り、大和が「川神」を超えても風間ファミリーは依然として大和を助け、その大和の姿に冬馬は感化された。これを踏まえると、ラストルートで冬馬が大和達を倒すために「パレード」を引き起こし、「川神」と風間ファミリーの両方を壊そうとしたのが自然なこととして受け入れられる。*19
つまり、ラストルートとはキャラクターを守り「明るく楽しい」日常に留めるために張られた複数のセーフティネットを冬馬が全て破壊しようとする話として読むことができる。*20
以上のように、タカヒロは作品の根幹で「明るく楽しい」を保証するセーフティネットについてかなり自覚的である。彼は今後どういった方向性のストーリーを見出すのだろうか。
一つには、セーフティネットの中で生きる者達の「明るく楽しい」日常をラブコメディとして描くという旧来の方向がある。もう一つは、セーフティネットを脅かすものと戦い、それをもってセーフティネットをより強大に再構成させるという方向。最後に、セーフティネットを離れようとする者達を描く方向がある。『まじこい』はこうした異なる性格を持つストーリーを共存させることで、総体として豊かになった。タカヒロがマルチエンディングのADVという形でゲーム制作を続けるのであれば、どれか一つを選ぶのではなくそれぞれの方向性を常に比較しながら発展させていくことも可能だろう。
ライトノベル作家浅井ラボは次のように述べ、娯楽の将来を案じている。

娯楽系から、作者の本気の憎悪と殺意が詰まったような作品が、急速に消えているんじゃなかろうか。受け手の不快感を極力取り除いていこうとする、優しい作品が増えたように思う。危険なのはギャグ。安全な(仮想の危なさ、または他版権に触れるよ危ないよ、みたいな安全さ)な笑いでどうする。*21

タカヒロが書くセーフティネットとしてのコミュニティは、ともすれば単なる無菌装置として働く恐れもある。筆者は敢えて使ってこなかったけれども、それは一般的に「楽園」という言葉で表すことができる。しかし、タカヒロのポテンシャルはそうした悪い意味での楽園をすら克服していくと信じたい。例えば、タカヒロは『アカメ』の漫画原作において既存のタカヒロ作品とは違うダークな作風を打ち出している。みなとそふと以外の場で「明るく楽しい」とは違うストーリーを作り、そこで得たものを何らかの形で還元できれば、タカヒロ作品は「安全な笑い」を超えたコメディをも表現できるはずだ。

4.5.2.川神一子は挫けない

『まじこい』が以前のタカヒロ作品から継承し発展させてきたのはコミュニティやセーフティネットに留まらない。川神一子ルートでは、本論で示してきた他者との関係性によるアイデンティファイ、不変性と可変性のバランス感覚、バイタリティの発揮、主人公における主体と主観の分離などが見られる。
一子は出生後すぐに孤児となり、里親を経て川神院の娘となった。義姉である百代を補佐するために川神流の武術で高みへ昇り師範代になる、という夢を実現させるために一子は努力したものの、それは叶えられなかった。アイデンティティを喪失しかけた一子は、自身のルーツを辿るために孤児院があった土地へと向かう。だが、結局そこからは何も得られない。「自分は何者なのか」という一子の問いに対して、大和は「大和の恋人」、百代は「川神院の娘であり百代の義妹」というアイデンティティを改めて提示し、一子はそれを受容する。キャラクターの姿は過去ではなく常に現在における他者との関係性の中からしか見出すことができない、ということをはっきり表したストーリーだ。*22
結局、一子は師範代になることを断念するものの、姉を慕い支えようという気持ちは過去から一貫して不変であり、師範代に代わって姉を助ける方法を見つけることができた。同時に、武術を学んできた過去を肯定する。このように、一子ルートでは過去という不変性と現在(における他者との関係性)という可変性のバランスが取られている。*23
また、一子が師範代を目指す過程や挫折からの復帰において彼女のバイタリティが発揮されている。主人公の主体と主観については本節第四項で他のヒロインとまとめて語ることにする。

4.5.3.これはこれで

『まじこい』のキャラクター達は持ち前のバイタリティにより、ありえたかもしれない可能性を想像しながら現在を全力で肯定する。マルチエンディングに伴う選択という問題を、彼らはそうやってクリアしている。本作では、自分達が歩んでいる人生がいくつかある可能性の中の一つであるという意識が複数のキャラクターの口から語られる。しかし、時折他の可能性に思いを馳せることはあっても、彼らは「いま、ここ」で自分達が歩んでいる可能性から離れようとは思わない。

“あの時こう動いてたら、俺はどうなっていたんだろう”と夢想してみた。
それは、しょせん妄想遊びに過ぎなかった。
今の俺は自分で、出来る事出来ない事をわきまえたに過ぎない。
……俺はいつから、大人になったのだろう。
今日も1日が終わる。
これはこれで1つの幸せだった。
(『まじこい』百代ルート 百代あきらめエンド)

『まじこい』のゲームとしての目的は主人公がヒロインと結ばれることであるけれども、結ばれなかったエンディングは必ずしも「バッド」エンディングとして描かれない。むしろキャラクター達は「これはこれで」良しとしている。それはネタとして解釈することもできるが、どちらにせよ、あらゆる選択結果を受け止め「明るく楽しい」人生へと向かっていくキャラクター達にはバイタリティが備わっていると言えよう。『つよきす』の項で説明したバイタリティの発揮による現在の肯定が意識的に受け継がれている。タカヒロは、一つ一つの可能性を肯定し、全てのルートを正史的に捉える思想に基づいて『まじこいS』を制作していると述べている。*24

4.5.4.主人公とヒロイン

『まじこい』のヒロインにはバイタリティが備わっているから、彼女らの問題を解決するにあたって本来的に主人公の存在は必要条件ではない。百代、クリス、一子、椎名京、黛由紀江というメインヒロインの問題解決にあたって大和が行うことは主観としての援助や補助であって主体の肩代わりではない。主人公として主観的キャラクターにはなっても、主体的キャラクターとはならない。
さらに、冬馬と井上準に付き従い悪の道に走ろうとする榊原小雪に向かい合っても、大和が問題解決の主体とならなかったことは特筆に値する。何故なら、他ならぬ大和自身が幼少時に小雪を救わなかったために小雪の心が壊れてしまったという事実があるからだ。
しかし、大和が犯したこの罪は過去のものとして水に流される。小雪自身はむしろ大和に一度見捨てられたことが冬馬や準と出会う契機になったとして肯定的に捉えている。それ以前に、彼女は大和を恨む心自体が壊れるという形で自立しているから、大和を必要としていない。だから、大和が小雪に「明るく楽しい」日々を(例えば小雪の恋人になることによって)直接的に与えることはなく、冬馬や準、小雪の悪事を止めることで間接的な救いを施すに留まった。
『まじこい』は様々な形で「誰かが他者の人生における主体になることは不可能だ」ということを繰り返し示している。主人公とヒロインは寄り添い合いながらも決定的に他人である。作中にはそれを示す絵がいくつか存在する。一つが京ルートでドア越しに大和と会話する京の絵だ。タカヒロが描く主人公とヒロインの間には常にこのドアのようなものが挟まれて互いを自立させるため、主人公はヒロインを直接的に助けることができない。
ラストルートのエンディングムービーで表示される小雪のCGもまた、主人公によって救われないヒロイン(主体的キャラクターとして自身を救うヒロイン)の姿として象徴的である。*25やがてやってくるであろう、小雪が冬馬や準と過ごす「明るく楽しい」日々もまたラストルートのエンディングで一枚絵として描かれる。大和は、ただそれを想像するだけの主観である。
以上のように、タカヒロは『まじこい』における主人公をヒロインが抱える問題解決の主体から切り離している。とはいえ、主人公があらゆる主体性を失うわけではない。主人公が抱える問題には、主人公自身が主体性を持って取り組んでいる。*26
そうでなければ主人公とヒロインは対等に恋愛関係を築くことができない、というのがタカヒロの描く恋愛観であり、その代表例が百代ルートである。大和は「一段上の女性」である百代と対等になるために、彼女を恋愛によって性的に隷属させ「一段下の女性」にすることではなく、自分自身を高め「一段上の男性」になるような努力をした。
ヒロインもまた、主人公が抱える問題において主人公を直接的に救ったりはしない。さらに、主人公がヒロインの問題に対して行うような補助についても行っている様子がない。この非対称性は、ヒロインの問題が主人公の問題に先行することに起因する。つまり、彼女らは自身の問題に対して主体的に取り組むことで忙しく、主人公はそんな忙しい彼女らを手伝い、彼女らの問題に間接的に関わることで自身の問題に対して意識的になっていくということだ。そして、主人公は先行者に何らかの施しを受けるのではなく先行者の姿に感化されることで、[助けられることなく助かっていく](注:原文では傍点)。一子ルートでは、一子に感化された大和が自身の在り方を変えようとする様子が分かりやすく示されている。

あの高い目標と努力には、正直尊敬した。
俺も、ワン子のようにありたかった。
……まだ、遅くないかな。
(『まじこい』一子ルート 6月7日)

他者の姿によって、自分の生き方を変えるほどに感化されるということ。端的に、それは憧れである。

5.結

この章をもって本論を終えることとする。最後に、筆者がキャラゲーとしてのタカヒロ作品から考察した、美少女ゲームプレイヤーとキャラクターの関係について述べる。

5.1.憧れ

憧れとは、主観的キャラクターが主体的キャラクターに視線を向けることで生じる感化である。主体から切り離された主観としての主人公は、主体としてのキャラクターを求めて視線を移動し、主体的キャラクターの姿に感化されて自身を変容させていく。感化されるためには肯定的な感情を伴って同一化することが必要であり、同一化とは他者の中に自己を見出すこと(感情移入)である。言い換えれば、憧れとは他者(主体的キャラクター)の姿に自分(主観的キャラクター)が「こう在りたい」と思う姿を発見することである。
タカヒロ作品においては、主人公がヒロインに憧れるのと同じプロセスで、プレイヤーもヒロインに憧れることができる。ただし、プレイヤーは必ずしも主人公と同じ対象に憧れているとは限らない。その時主体的になっているキャラクターであれば、それがたとえルートヒロインでなくても、サブヒロインでも、男性キャラクターでも、主人公までもがプレイヤーにとって憧れの対象となる。
さて、既述のようにタカヒロ作品は『つよきす』と『まじこい』を中心に群像劇化してきている。ここで、群像劇の特徴として「より多くのキャラクターに対するプレイヤーの同一化」に注目したい。
ストーリーが群像劇的であることで、プレイヤーは作中の様々なキャラクターに同一化することができる。同一化は主人公格のキャラクターに軸を置きながら、様々なキャラクターへとスイッチされていく。それは、逆説的にプレイヤーがどのキャラクターからも適切な距離を保った存在であることを示す。プレイヤーとキャラクターは他者である。他者であるからこそ、プレイヤーはキャラクターに憧憬の気持ちを抱く。それは、ストーリーの中でキャラクターが別のキャラクターに対して抱く尊敬や羨望と同じものだ。
プレイヤーと主人公が合一するのは、両者が主体を剥がされ、主体的キャラクターを憧れの視線で眺める主観的キャラクターとなった時である。換言すれば、プレイヤーは「主体的キャラクターに憧れるキャラクター」という主観を手に入れることでより深く作品に没入していく。
憧れは引力と斥力を持つ。タカヒロ作品のプレイヤーは魅力的なキャラクターに惹きつけられるけれども、最終的には突き放されるだろう。『まじこい』作品論における主人公とヒロインの関係から分かるように、タカヒロが書くキャラクターは主体的で自立した存在だからだ。
しかし、キャラクターに突き放されるからこそ、プレイヤーは憧れによって得たものを作品から現実へ、自分自身の生へと持ち帰ることができる。タカヒロ作品においてプレイヤーが憧れから得るものとは、人生への肯定感と主体性であろう。
これまで、タカヒロ作品が如何にして「明るく楽しい」を表現してきたのかを論じてきた。さらに、「明るく楽しい」が何を生み出したのかという問いに対する答えがこれだ。タカヒロ作品を通して「明るく楽しい」日々とそこに生きるキャラクター達に感化されることは、自分の人生に肯定感を持って生きていくことを意味する。
さらに、プレイヤーと主人公の同一化がプレイヤーに主体性を与える。『まじこい』において、主人公は作中で主観的キャラクターとして誰かに憧れ、感化されて主体的キャラクターへと成長する。その主人公と同一化してきたプレイヤーは、主観的存在であった自身もやがて主体的存在となる予感を抱くだろう。*27では、どこで主体的となるのか。ゲームから離れたプレイヤーが立つのは、現実という自分自身の人生をおいて他にあるまい。

5.2.プレイヤー、キャラクター、シナリオライター

美少女ゲームのプレイヤーとキャラクターが同一化するにあたって何より貴いのは、同一化しているという状態ではなく、同一化できるという可能性でもなく、同一化したいと望む気持ちである。自身の問題に対して主体的で自立したキャラクターが魅力的に見えた時、プレイヤーはその姿の中に自己を見出したいと思う。そして、彼らの歩みが「明るく楽しい」人生として映った時、そこに自分の人生を見出したいと願う。
主観的キャラクターと同じものに憧れていることを知った時、筆者はキャラクターと自分が同一の地平に立っていることを認識する。それは、自分自身を「主体的キャラクターに憧れるキャラクター」として捉えることでもある。ストーリーに引き込まれ、テキストを通してキャラクターの内面に近づき、憧れる。ついには自身をキャラクター化する。それでも、最後に筆者が還るのは現実である。
筆者は憧れによって主観から主体へと成長し、現実を理想に同一化しようとする力を得る。理想を生きるキャラクターの中に自分と共通する内面を見出した時、現実を生きる自分もまた憧れたキャラクターのように在ることができるのではないか、理想に向かって進むバイタリティが自分にも備わっているのではないか、「明るく楽しい」日々を過ごす可能性が自分にもあるのではないかという希望が生まれる。
タカヒロが作り上げ、タカヒロ作品がキャラゲーとして達成し、筆者がなぞったのは、美少女ゲームに基づくそのような憧れのプロセスである。
一つの美少女ゲームを通して、キャラクターに出会い、憧れ、自分の中に彼らと同じものを見出し、それを大切に抱いたまま去っていく。プレイヤーたる筆者がシナリオライターたるタカヒロに殺されたとすれば、その死は紛れもなく彼が生み出したキャラクターへの憧憬によるものだろう。*28
我々はただ、憧れのあとさきを生きる者達である。

*1:2003年は同様に姉萌えをテーマにしたゲームが多く発売された年であり、後に「姉ゲー元年」と呼ばれる。参考:『全姉連会報』創刊号(全姉連、2003年)http://www.zenaneren.org/contents/lab/

*2:バックという体位には女性上位のヒロインを落とした証という意味が込められていることを、タカヒロ自身が言及している。(『姉、ちゃんとしようよっ!公式ファンブック 愛と罵倒の日々』MCプレス、2003年)。『姉しよ』から『まじこい』に至るタカヒロ作品において、体位をバックにしたHシーンは、各メインヒロインに最低一つは用意されるのが原則である。

*3:言わば、要芽以外のヒロインのルートは寄り道である。しかし、その寄り道=要芽以外のヒロインの存在が、ヒロイン相互のコミュニケーションを生み、『姉しよ』を総体として「明るく楽しい」キャラゲーにしている。

*4:『全姉連会報』創刊号

*5:『ASTATINE:「姉、ちゃんとしようよっ!1&2」評。』http://blog.livedoor.jp/april_29/archives/13944077.html

*6:強気属性や武士娘(凛々しさ)属性では、このようにヒロインを結束させることは難しい。そもそも、複数人でのセックスを肯定的に描くには参加者の合意が必要であり、そのような合意は家族並みに近しい間柄でないと形成できない。ホームコメディとして『姉しよ』の血を引く『きみある』では、主従ヒロイン達が家族的な絆で結ばれているから、自然な形で3P(「主従丼」)が行われていた。しかし、「主従」という属性は一従者である主人公に対してハーレムを形成するほどの力を持たない。ある程度現実に近いタカヒロワールドの性倫理観では3Pというストーリーを既述するのが限界であり、ハーレムを書こうとすると無理が生じるので断念せざるを得ない、ということではないだろうか。

*7:『ASTATINE:「つよきす」評。』http://blog.livedoor.jp/april_29/archives/50054659.html

*8:『ハー○イ○ニー観察日記  なんかてきとうに 教師について』http://d.hatena.ne.jp/tdaidouji/20060828#p1

*9:『ハー○イ○ニー観察日記  なんかてきとうに つよきすPC版』http://d.hatena.ne.jp/tdaidouji/20060819#p1

*10:『ハー○イ○ニー観察日記  なんかてきとうに つよきすPC版』http://d.hatena.ne.jp/tdaidouji/20060819#p1

*11:『ハー○イ○ニー観察日記  なんかてきとうに つよきすPC版』http://d.hatena.ne.jp/tdaidouji/20060819#p1

*12:このトラウマ克服においても、レオは乙女の隣に座るだけであり、補助はしても救済はしない。タカヒロ作品の問題解決におけるヒロインと主人公の基本関係を守っている。

*13:同時にレオもスバルから自立する。きぬルートは対馬ファミリーというコミュニティ自体を扱ったストーリーでもある。

*14:レオが主体性を失いかけるきっかけとなったトラウマ的過去は『つよきす』では語られず、『つよきすMH』の近衛素奈緒ルートとそれを基にして作られた『みにきす』のシナリオで明らかになる。

*15:デニーロが自爆するに至るまでのエピソードの連結自体は短絡的であるものの、他者の姿に感化される未有は印象的である。

*16:2010年4月1日のエイプリルフールイベントとして、みなとそふとは「川神市のWebサイト」を立ち上げ、より詳細に川神の街とそこに生きる人々の様子を表現した。

*17:主人公直江大和の父は日本に絶望して海外へと去っているが、大和が日本を良くしていこうとする姿に感化されれば戻ってくるかもしれないと語っている。ラストルートにおいては、ルー・イーや釈迦堂刑部といった大人達も考えを改めている。そのような大人達は子供のまま大きくなった者達だから、大人の再起も結局はモラトリアムに回収されるという考えもあるだろう。筆者はそれを否定しない。

*18:真剣で私に恋しなさい!ビジュアルファンブック』所収、(エンターブレイン、2010年)

*19:冬馬がコミュニティに取り込まれないで完全に悪に染まるためには「川神」や風間ファミリーに再生不可能なほどの被害を与える必要がある。だが、片方を潰すだけではもう片方のセーフティネットによって再生されてしまうことがクリスルートで明らかになっている。

*20:冬馬が正体を隠すために使った「マロード」という名前は「客神(よそから訪れる人)」を指す。これは冬馬が「川神」というセーフティネットに取り込まれたくないという意志を表したものとして読める。

*21:http://twitter.com/ASAILABOT/status/29470109756

*22:一子のアイデンティティを他者との関係性から示した百代もまた、戦いを望むサガを持ちながら風間ファミリーにおける関係性の中で自己を保っている。このような点で川神姉妹は相似している。

*23:ただし、可変的なものとして常に更新されていくキャラクターの姿をプレイヤーが適切に受容しているかは疑問である。その受容態度については今後さらに論考を深めたい。

*24:坂上秋成司会・構成、「【鼎談】王雀孫×桜井光×タカヒロ美少女ゲームの突破口――新たなる『楽園』を探して」(『PLANETS vol.7』所収、第二次惑星開発委員会、2010年)

*25:冬馬と準と小雪が写った写真が散らばる部屋の中で、二人から離れてしまった小雪はただ一人で三角座りになり、じっと彼らが帰ってくるのを待っている。これは、『つよきす』において同じく三角座りになって雷を克服しようとする乙女の姿を描いたCGの継承として見ることができる。

*26:『まじこい』における大和の問題とは、かつて持っていた「国を動かせるだけの人間になりたい」という夢を半ば諦めてしまっていることである。

*27:『まじこい』ラストルートエンディングにおいて風間ファミリーが解散するシーン(CG)は、まさにプレイヤーがキャラクターと別れて自立することをも示唆している。

*28:田吉法「『なにが三十一人を殺したか』――WHOより語り、HOWへと至る」(『恋愛ゲームシナリオライタ論集30人30説+』所収、theoria、2010年)にあるように、コミュニケーションとは一方的なものであり、作品読解とは一つの誤読だと言える。そして、憧れもまた他者への一方的な誤解だろう。