ゲーム「Normalize Human Communication」 感想

そんなわけで。「むきりょくかん。」のヴィジュアルフラッシュノベル「Normalize Human Communication」をプレイしたので感想を書くよ。
Normalize Human Communication のまひゅ。
Normalize Human Communication のまひゅ。 裏話のような何か。(ネタバレあり)
これは死生観をテーマにした作品で、悲しいけれど泣けないゲームだ。プレイ時間は短いので、その気になれば一日で終わらせることができる。背景を始めとするディティール部分や音楽がゲームの中でとても良い働きをしていた。今後、このサークルの別作品を触れることも考える。
さて、本作のあらすじは「難病に冒された女の子がどうのこうの」というものであり、一見すると泣きゲー的テンプレ展開かと思ってしまう。しかし、最初に言ったようにこの物語は「泣けない」。泣くことが許されない、と言った方が正確かもしれない。読者に対して安易に涙することを禁じるような、酷なお話である。

死の受容のプロセス

ストーリーの補助線として、キューブラー=ロスが提唱した死の受容のプロセスが導入されている。Wikipediaによれば、以下のようなものである。

死の受容のプロセス

エリザベス・キューブラー=ロスが『死ぬ瞬間』の中で発表したもの。以下のように纏められている。すべての患者がこのような経過をたどるわけではないとも書いている。

否認
自分が死ぬということは嘘ではないのかと疑う段階である。
怒り
なぜ自分が死ななければならないのかという怒りを周囲に向ける段階である。
取引
なんとか死なずにすむように取引をしようと試みる段階である。何かにすがろうという心理状態である。
抑うつ
なにもできなくなる段階である。
受容
最終的に自分が死に行くことを受け入れる段階である。
エリザベス・キューブラー=ロス - Wikipedia

作者の吉村麻之がこのプロセスを踏んだ理由は"最後の「希望」の記載が気持ちよかった"からだと裏話に書いてあった。それは、次に示す文章である。

しかし、たいていの場合、
各段階を通してずっと存在し続けるものがひとつある。
 
それは希望である。
(Chapter4.六時間前のハッピーニュース)

確かに、この希望についての記述によって、物語に一本の芯が入ったように思える。
僕はかつて、とある事情から「死」を探求することに興味を持ち、様々な学問領域から学際的に死を考える「死学」を身につけようとした。今はもうそこまで「死」にはとらわれていないけれど、当時「死」に関するWeb検索を試みた際に辿り着いた一冊の本がある。それが「死を考える事典」だ。
値が張るので図書館で借りたことしかないけど、内容は充実していて、まさに死学を体現した事典となっている。その一項目として、件のプロセスが掲載されていた。記憶の限りでは、「死を考える事典」における「死の受容のプロセス」には、希望についての記述がなかったと思う。そのせいか、最初に目を通した時は、自分がその過程を経ることを考えて嫌気が差した。今、一つの物語として触れると、こんなものか、という冷たい感慨がある。実際、作中でそこまで忠実にこのプロセスが踏まれるわけではないんだけどね。

正常化という方法

最初の話題からさらに一歩進んで、何故このゲームで泣くことができないのかと言えば、それはこの物語が悲しみをNormalizeする話だからだ。「死」に対してどう向き合うかという問題に、正答はないかもしれない。だが、この作品が示したような静かで過酷な受け止め方も、一つの方法ではあるだろう。
終盤、記憶が薄らぐに伴って心が正常になっていく様を津波に例える一文が、今日という日には重い。

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