打ち切り漫画などにおける「淡泊な描写」の魅力

そんなわけで。
いつまでも(さして出来が良くない)「恋神 -ラブカミ-体験版」の 感想をブログトップにしておくのも嫌なので、以前Twitterに書いたことを記事にしておこう。

淡泊な描写

漫画や小説と言った媒体を問わず、一つの物語において、重要だと思われる物事が淡泊に描かれることがある。
これは例えば週刊少年ジャンプの打ち切り漫画でよく見かけることができる。物語中において鍵となるような謎・伏線・過去回想などが、その重要さに比べてやけにあっさりと(数ページ、あるいは数コマで)描かれてしまう。時にはそのアンバランスさが笑いを生むことさえある。*1
多くの場合*2、このような描写は褒められることはなく、むしろ「投げっぱなし」や「伏線放置」、「描写不足」などと批判される。
しかし、中には淡泊な描写をすることによって読者・視聴者の想像力を刺激し、該当場面を魅力的に見せるという場合もある。

ONE PIECE」序盤、ゾロの回想

僕が特に気に入っているのが、漫画「ONE PIECE」序盤におけるロロノア・ゾロの回想である。
現在の、週刊少年ジャンプの中で圧倒的な人気を誇る「ONE PIECE」であれば、主要登場人物であるゾロの回想シーンにはかなりのボリュームを割くことが可能なはずだ。*3
しかし、ルフィがゾロと出会い、彼を仲間にする段階では、まだその人気は鉄板とは言えなかったはずだ。*4常識的に考えて、早期打ち切りの可能性がある漫画序盤で一人の人物の回想シーンに何話もの容量は割けない。このような外的要因から、ゾロの回想シーンはコンパクトにまとめられた。
しかし、その描写は淡泊でも、読者に伝えるべき内容までが削がれることはなかった。くいなとの修行の日々、突然すぎるくいなの死、そして師匠からくいなの刀を譲り受け世界一の大剣豪を目指すことを誓ったこと。これらが凝縮して描かれている。
個人的には、この短い回想が良い働きをしたと思う。本来、記念すべき主人公一人目の仲間であるゾロの回想がこんなに短くていいはずがない。僕たちは前述の外的要因を知っているからこそ、そう思わずにはいられない。そして、僅かな紙数に対して圧倒的な容量を持つ「ゾロの人生」が、コマの間から、ページの余白からあふれ出し、読者の想像力を喚起する。僕たちはゾロの出立を、旅路を、海賊狩りの日々を想う。
以上のように、「ONE PIECE」序盤におけるゾロの回想は、「淡泊な描写」が成功した一例である。

ジョジョの奇妙な冒険における登場人物の回想

もう一例を挙げるなら、(これも漫画になってしまうが)「ジョジョの奇妙な冒険」第五部における登場人物の回想がある。
第五部の主人公が属するグループはマフィアの一味であり、そのメンバーはそれぞれが違った事情からマフィアに入っている。そして、物語が中盤にさしかかると、時折メンバー一人一人の回想が差し挟まれ、そのキャラクターの内面を掘り下げる。この場合の回想も、話数を重ねることはなく、ひどくあっさりとした描写として提示される。
効果については先ほどのゾロの例と同じく彼らの人生を読者に想起させる良い働きをしたと言えるだろう。ただし、第五部においては味方のキャラの掘り下げ=そのキャラの死亡フラグであることが多かった。安直な展開予想によって物語の面白さが損なわれることを防ぐためには、回想の差し挟み方に何らかの工夫が必要だろう。

ここまで、「淡泊な描写」の魅力について解説してきた。例に挙げたジャンプのみならず、様々な外的要因でカットされた・縮められたと思われる場面を目にする度に、僕たちは想像力を働かせてそれを埋めようとする。僕はそこに、ある種の美学を感じる。
最後に一つ付け加えておくなら、「淡泊な描写」の魅力とは、突き詰めると対象となる人物・物事の魅力であるということだ。そもそも、ゾロというキャラクターに想像力を喚起させるだけの魅力がなければ、ゾロの人生を回想することに何の価値もない。「この人の過去が知りたい」と読者に思わせる、その段階で尾田栄一郎荒木飛呂彦は成功していたと言えるだろう。

*1:増田こうすけ劇場 ギャグマンガ日和」の劇中劇「ソードマスターヤマト」は、この笑いを意識化した漫画である

*2:もちろん、ジャンプの例で言えば僕たちはあの雑誌がアンケート結果による容赦のない早期打ち切りを行い、それが「淡泊な描写」の外的要因であることを知っている。しかしそのような外的要因を抜きにして作品の内容を評価した場合の話だ

*3:空島編におけるノーランドの回想や、ルフィ・エース・サボの回想と同様に

*4:公式サイトによる区分では、「囚われの"海賊狩り"」とされるこの一編は第2話から第7話までが該当する