ゲーム「スマガ」 レビュー

1.序

そんなわけで。ニトロプラスの人生リベンジADV「スマガ」を先月コンプした。本作は、公式Webサイトやパッケージを見ればわかるとおり、ビジュアルやサウンドがポップにデザインされていて、*1自社ネタを含めたパロディ要素も盛り沢山であり、親しみやすいエンターテイメント的な触感を持つ。しかし、シナリオはいわゆる「邪道な王道」といわれるタイプの作りになっていて、一種の毒、批評性をも備えている。非常に中身の濃いゲームであり、しっかりと僕の期待に応えてくれた作品だと言える。
以下はネタバレありで注目したところを書いていく。

2.高度な情報戦

まず、本作においてはプレイヤーに開示される情報が緻密にコントロールされていることに感心した。
このゲームはプレイヤーに対して二つの大きな謎を与える。一つ目は「セカイの仕組み」、二つ目は「彼女の名前」だ。二つの謎は物語の展開に大きく関わっている。

2.1.「セカイの仕組み」

「セカイの仕組み」は序盤から中盤にかけて、主人公(プレイヤーキャラ、PC)うんこマンがループを繰り返しながらヒロインを救う過程において必然的に向きあうものである。この謎を解明するための情報が高度に配置されている。
うんこマンは記憶喪失であり、セカイについて何も知らない状態でゲームがスタートする。*2そして、うんこマンはスピカ、*3ガーネット、*4ミラ*5といったヒロインたちを始めとして様々なキャラクターと出会い、ヒロインたちを救うという目的のもとに情報を集め、その情報をもとによりよい選択肢を選んで行動し、セカイの謎を解き明かそうとする。
ここで、主人公うんこマン以外のほぼ全てのキャラクターが持っている「セカイの仕組み」についての情報は断片的なものであり、さらにそれぞれが微妙に異なっていることに注意したい。うんこマンがその断片的な情報を集めて再構成するまで、セカイの全容は(元から知っているものを除いて)誰にも把握されない。
また、うんこマンが情報を集める過程ではミスリードも発生する。例えば、「前世の記憶について口外すると、それが誰であっても伊都夏市の外へ追放されてしまう」というのは作中における典型的な誤解である。このように、「セカイの仕組み」に迫るプロセスは一つの謎解きゲームのようであり、プレイしていてなかなか楽しかった。
さらに、キャラクターが作中で行動する動機もまたこれらの情報によるところが大きい。具体的にいうと、主人公があるキャラクターに特定の情報を教えたり、共に新しい事実を発見したりすることで、そのキャラクターのセカイに対する認識が改められ、それまでとは違う行動を取らせることに結びついていくということだ。特に魔女の三人には「セカイ観」というセカイについての厄介な前提認識があり、うんこマンが彼女らのセカイ観とどうやってうまく付き合っていくか、あるいはどう揺さぶっていくか、ということが彼女たちを救う上で重要となる。*6
これはキャラクターの行動に説得力を生み出すことにもつながっている。「特定の前提認識を持っている者に特定の情報を与えれば当然こう動く」と思えるようにテキストが記述してあるので、プレイしていて各キャラクターの行動に対して得心が行く。「なのはグッズには限りがある」という前提認識を持ってなのは列に並んでいる者が「なのは完売」という情報を得てそれを確信すれば、なのは列から離れてしまうだろう。そのような意味で、「セカイの仕組み」に迫るプロセスは高度な情報戦であるという言い方もできる。うんこマンとプレイヤーが戦う相手はもちろん、全ての情報を掌握し操作するアリデッドである。

2.2.「彼女の名前」

「彼女の名前」は中盤から終盤にかけて、うんこマンがなくしてしまった記憶に関する謎として提示される。中盤までに得た情報から考えれば、「セカイの仕組み」を解き明かしたことで主だったヒロインは救うことができるはずだ。だが、この謎が与えられたことによって、それだけでは未だに救われないヒロインがいることに気付かされる。「彼女」が誰を指すのか、その「名前」は何なのかということについては、「セカイの仕組み」ほどの複雑なプロセスを経なくても辿り着くことができる。だから、ここにおいては謎解き・情報戦的な楽しみはあまりない。大切なのは、「彼女の名前」が解明されたときにうんこマンとプレイヤーはどのような選択を取るか、ということだ。これについては後に詳述する。

3.シナリオの起伏

3.1.大ボリュームの意義

本作はディスク枚数こそDVD1枚に収まっているものの、(僕の)プレイ時間にして60時間弱という大ボリュームであった。いわゆる個別ルートは合計9個存在しているが、決して無駄なルートはない。全ての物語が適切に配置され、この作品の中で一定の構造的役割を果たし、「スマガ」という一つの物語を作り上げている。
特筆すべきは中盤から終盤にかけての個別ルートの扱いである。ここでは、それまでPCとしてプレイヤーと共に歩んできたうんこマンは「かちかちうんこマン」として神様となり、物語に関与する権利を失ってしまう。新たに一切の記憶を持たない「やわらかうんこマン」が登場し、かちかちうんこマンはやわらかうんこマンをPCとして、時に助言を与えながら物語を鑑賞する立場となる。
やわらかうんこマンがPCとなる個別ルートは「Sakura Mau Gakuen」「Super Mind Game」「See the Magical Gold-star」「Sweet Memory Goes on」「Saraba Mitsu Getsu」の5つである。5つのルートを進める順番は任意であるけれども、僕は2つほど終わらせた時点で違和感を覚えた。これら5つのルートは、どうも盛り上がりに欠ける、というか物足りなさを感じる。その答えは、1つのルートを終える度に挿入される、かちかちうんこマンと神様(幼女)の対話にあった。ここで強調されるのは、それぞれの物語がハッピーエンドに至っても未だに救われない「彼女」の存在である。「彼女」を救いたい、救わなければならないという意志がかちかちうんこマンと僕の心中に芽生えてくる。
事ここに至って、このゲームのボリュームの大きさが効いてくる。つまり、本作中盤においてあまりにも長い時間「救われない彼女」を意識させられ、しかもその問題意識が解消されることがないために、僕たちはどうしようもなく彼女を助けたくなるのだ。救いに対する飢餓感に悩まされる、と言い換えてもいい。この自覚を促すためだけに5つものルートを物足りない仕上がりにする、という作劇方法にはひっかかるものがあるけれども、その是非はひとまずおこう。*7もし本作中盤のシナリオが短かったとすれば、僕はあれほど強く彼女を救いたいとは思わなかっただろう。本作が大ボリュームになっていることの意義がここにある。

4.プレイヤーとキャラクター

最後に話したいのは、(例によって)プレイヤーとキャラクターのことだ。

4.1.自分のこと

既述のように、本作の中盤から終盤にかけては、プレイヤー→かちかちうんこマン→やわらかうんこマン、というPCの二重の入れ子構造が成立する。ここで注目すべきは、かちかちうんこマンにとってやわらかうんこマンが同じ自己(うんこマン)でありながら他者であるということである。他者性の象徴として、やわらかうんこマンにはCVが付いている。
本作終盤の展開はかなり反則チックだ。何故って、解放された無数の物語の中には、やわらかうんこマンが無数に存在してくれていて、彼らがかちかちうんこマン、ひいてはプレイヤーを助けてくれるというんだから。
どういうことかというとね、やわらかうんこマンというのは、他者でありながら自己、自分であるわけだ。普通、この現実世界現在時間において自分という存在は常に一人だろう。現在の延長線上にある過去あるいは未来の自分を他者、つまり現在の「この自分」と不連続な存在として捉えることはもちろん可能だ。けれども、そうして捉えた不連続存在としての自分、他者であるところの自分は、現在の「この自分」と同時に存在し得ない。さらに、「過去において現在の自分とは別の選択肢を選んだ自分」を想定しても、それはこの現実世界現実時間において「この自分」と同時に存在し得ない。要するに、可能世界の自分と「いま、ここ」で会うことはできない。それを、「スマガ」はやってのけた。こうやって自分を助けてくれる、励ましてくれる、応援してくれる自分がいるということは、なんて素晴らしいんだろう。僕はとても嬉しかった。
そして、「他者であるところの自分」をキャラクターとして受け容れるという態度も学ぶことができた。「他者であるところの自分」というと難しい概念に思えるけれど、かちかちうんこマンにおけるやわらかうんこマンの存在を考えれば簡単なことだ。僕たちがゲームのキャラクターに接するのと同じような気軽さで、優しさで、愛おしさで、昨日の自分や明日の自分に接してあげればよいのだ。現実はゲームのようにはいかないから、僕は彼らと同時に存在し得ない。だけど、昨日の自分の言葉を読み、明日の自分のために言葉を書くことができる。そうした行為だけでも、自分というものはいくらか救われるような気がする。

4.2.彼女のこと

さて、もう一度かちかちうんこマンとやわらかうんこマンについて考えよう。彼らは他者でありながら同じ自分であった。彼らは、うんこマンであるという一点において同一人物である。換言すれば、彼らの同一性を担保するのは「うんこマン」という形質である。では、うんこマンをうんこマン足らしめているものは何か。それは、「彼女」の愛である。
そもそも、PCたるうんこマンが何度死んでもうんこマンとして生まれてくるところに、何らかの意志を感じないだろうか。いや、何を当たり前のことをと言われるかもしれないけど、ループする度に以前と違う存在に転生しちゃってたりしたら困るじゃん。カラスとか。せっかく気合を入れて生まれ変わったのに、森生動物園のウサオくんがPCとして与えられて「わーい! ミラちゃんに抱かれて幸せ! 神様ありがとウサギ!」とか言われたら目ン玉がぽぽぽぽーん! って飛び出すよね。だけど、実際は何度生まれ変わったとしてもプレイヤーは常にうんこマンというPCを与えられる。ありがとうんこマン!
そして、あらゆるうんこマンをうんこマンとして同定しているのが「彼女」、川嶋有里である。プレイヤーは彼女から祝福されている。だってこのゲーム、うんこマンというPCを与えられている時点で半分勝ったも同然じゃないか。そうやって僕を祝福してくれるんだから、僕も有里のことが好きになる。
そりゃあ、ここまで長々と書いてきたように、このゲームにおいてはあらゆることがかちかちうんこマンと有里を結ぶために作用させられているところがあって、そこに反感を覚えないでもない。でも、悪意を持ってそれらの仕掛けを喝破するよりは、素直に受け入れて彼女を愛する道を選び取りたい。
美少女ゲーム、というか美少女というものは「視線」と密接に関わっているわけで、そこにおいてはもっとも永く視線を注いだ者がもっとも強い。だから、"ずっと彼を見てきた"*8有里がうんこマンを獲得するのは自然なことではある。

4.3.キャラクターのこと

有里は、うんこマンは、僕たちは、そのためなら殺されたっていいくらい(例えば「Shoot the Miracle Goal」における有里を見よ)、キャラクターたちの幸せを大切に思っている。終盤、アリデッドが本当に幸せそうな顔をするんだよ。僕はそれが嬉しくてたまらなかった。同じくらい、キャラクターたちも僕たちの幸せを願ってくれている。そう信じられるだけの奇跡を、僕たちは観た。
僕は、美少女ゲーム(特にループゲー)における個別ルートを考えるとき、それが物語本体からちぎれて消えていくイメージを思い浮かべる。キャラクターたちがナグルファルの船に乗って去っていく、というようなイメージを想起する。彼らの姿はどこまでもどこまでも遠くへ霞んでいって、二度と戻ってくることはない。
見送ったはずの他者も、他者であるところの自分も含めた全てのキャラクターたちが、「いま、ここ」にいる自分のことを助けてくれる、というラストシーン。プレイヤーとしていつも一方向的に彼らを愛してきた僕は、去っていったはずの方からそんな風に面と向かわれると、なんというか、照れる。
しょうがないので、花火が消えるまで、僕は彼らとハッピーエンドを分け合った。

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ニトロプラス 2009-05-22
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*1:特に好きな曲は「(a)SLOW STAR」「イデアリズム」「あくびの戦士がふぁー」

*2:このことは、PCが持っている情報量をプレイヤーとシンクロさせ、感情移入をさせやすくする働きもしている。

*3:彼女に魅力がなければそもそもうんこマンも僕も彼女を救おうとは思わなかったはずで、物語の最初に接触しPCの原動力となるヒロインとしてスピカはいい仕事をした。

*4:欝陶しいところもあるけど憎めない

*5:嗅覚に重きを置くヒロインは珍しかった。

*6:セカイ観が端的に見られるのは「She May Go」「Sad Mad Good-bye」「Shoot the Miracle Goal」のエンディングにおける登場人物の名前表記である。

*7:リトルバスターズ!」が理樹と鈴の物語であることと同じ程度には、「スマガ」は彼と彼女の物語であるのだから。

*8:「(a)SLOW STAR」