小説「小説版・秒速5センチメートル」 感想

そんなわけで。新海誠著「小説版・秒速5センチメートル」の感想。この小説版は、同監督のアニメ映画「秒速5センチメートル」を元に、アニメ版を観ていなくても読めるように作りつつ、相互補完的な内容にもなっている。非常に自分好みな文体で書かれていて嬉しかった。これからは作家としての新海誠にも期待したい。
本作品には特別な思い入れがあるのだけれど、それはまた項を改めて書こうと思う。このエントリでは、作中に出てくる一つのキーワードに着目した感想を手短に述べることにしよう。

たった一つの言葉

僕が最初に「秒速5センチメートル」アニメ版を観た時、最も印象に残ったのが以下の台詞である。

「貴樹くんは、きっとこの先も大丈夫だと思う。ぜったい!」

これは、第一話「桜花抄」で貴樹と明里が別れる際に明里が告げた言葉だ。この言葉は、形を変えて第三話「秒速5センチメートル」に再び現れる。山崎まさよし「One more time,one more chance」が流れている中で、明里の手紙が映る1カットがそれだ。

一瞬見せられるからこそ、この画は強く目を引いて、「あなたはきっと大丈夫」という言葉は深く心に刻まれた。以後、本作品を思い出す時には、常にこの言葉も想起するようになった。そしてその度に僕はこの上なく暖かい気持ちになり、勇気づけられた。
僕にとって「あなたはきっと大丈夫」という言葉は、「秒速5センチメートル」を象徴するキーワードになっている。

小説版におけるリフレイン

次に、今回読んだ小説版に目を移してみよう。ここでも、「あなたはきっと大丈夫」という言葉が最重要キーワードとして繰り返し現れる。この台詞を起点に「秒速5センチメートル」を考えようという僕の着想は正しかったことを確信した。

第一話 「桜花抄」

(前略)明里は思い切ったように顔を上げ、まっすぐに僕を見て言葉を続けた。
「貴樹くんは、この先も大丈夫だと思う。ぜったい!」

ここはアニメ版をそのままトレースしている。続いて、貴樹は先ほどの言葉を再確認する。

「貴樹くんはこの先も大丈夫だと思う」と、明里は言った。
 何かを言いあてられたような――それが何かは自分でも分からないけれど――不思議な気持ちだった。同時に、いつかずっとずっと未来に、明里のこの言葉が自分にとってとても大切な力になるような予感がした。

第三話 「秒速5センチメートル

小説版の中でも特にアニメ版との差異が大きいのが第三話だ。ここでは高校卒業後の貴樹の人生が詳述され、アニメ版を補完している。第三話において貴樹はさらに明里の言葉を思い起こし、切望する。

せめて一言だけでも、と彼は思う。
その一言だけが、切実に欲しかった。僕が求めているのはたった一つの言葉だけなのに、なぜ、誰もそれを言ってくれないのだろう。そういう願いがずいぶんと身勝手なものであることも分かっていたが、それを望まずにいられなかった。久しぶりに目にした雪が心のずっと深いところにあった扉を開いてしまったかのようだった。そして一度それに気づいてしまうと、今までずっと、自分はそれを求めていたのだということが彼にははっきりと分かるのだった。
ずっと昔のあの日、あの子が言ってくれた言葉。
貴樹くん、あなたはきっと大丈夫だよ、と。

また、貴樹がこれまで出会い、別れてきた人たちのことを後悔と共に振り返る場面。ここでも、明里の言葉が最も大切に扱われていることは明らかである。

「すこし辛いんです」という水野の言葉。すこし。そんなわけはないのだ。「悪かったな」という彼の言葉、「もったいないじゃない」と言ったあの声、「私たちはもうダメなのかな」という塾の女の子、「優しくしないで」という澄田の声と、「ありがとう」という最後の言葉。「ごめんね」と呟く電話越しのあの声。それから。
「あなたはきっと大丈夫」、という明里の言葉。

さらに小説版で特筆すべき補強点として、明里と貴樹が第一話で書いた手紙の文面が明かされる。お互いにそれを知ることはなかったけれど、"あのキスの前"、"世界の何もかもが変わ"る前に、そこでは確かに幸福な対話がなされていたことが示されている。

貴樹くん、あなたはきっと大丈夫。どんなことがあっても、貴樹くんは絶対に立派で優しい大人になると思います。貴樹くんがこの先どんなに遠くに行ってしまっても、私はずっと絶対に好きです。
どうかどうか、それを覚えていてください。

大人になるということが具体的にどういうことなのか、僕にはまだよく分かりません。
でも、いつかずっと先にどこかで偶然に明里に会ったとしても、恥ずかしくないような人間になっていたいと僕は思います。
そのことを、僕は明里と約束したいです。

この上ダメ押しで、大人になった明里が今も「貴樹が大丈夫であること」を願っていることが描写されている。

 貴樹くんが元気でいますようにと、窓の外の流れていく景色を眺めながら、明里は祈った。


最終的に貴樹は立ち直り前進するけれども、その再生の過程は決して一人で自分の傷を舐めるような行為ではなかった。「あなたはきっと大丈夫」という、大切な人の大切な言葉が心のどこかに残っていたからこそ、貴樹は再び前に進み出すことができたのだと思う。
秒速5センチメートル」は副題「a chain of short stories about their distance」が示すとおり距離の物語である。物理的な距離の隔たりは二人を決定的に離別させるけれど、真実から生まれる言葉は距離を、さらには時間をも越えて人の心を動かす、という見方もできる。少し強引だけれども。
とにかく、第一話の時点で既に貴樹は祝福されていて、それを大人になってから自覚し救われるというプロセスは確かだろう。ただし、その救いまでの過程が予定調和などという生やさしいものではないことも僕たちは知っている。
「いま、ここ」で生きる僕たちは、きっと誰もがその言葉を望んでいると思う。少なくとも僕は毎日、上記に引用した貴樹のように他人や自分を損ないながらも、たった一つの言葉を欲しがっている。ラストシーンで、今まさに歩き出そうとする貴樹の心情を想う時、僕も「あなたはきっと大丈夫」と言われているような気がした。アニメーションと対をなすこの小説において、「秒速5センチメートル」は希望の物語として再び僕の心に蘇る。
 小説・秒速5センチメートル A chain of short stories about their distance
 劇場アニメーション 秒速5センチメートル (ブルーレイディスク)