そろそろ「秒速5センチメートル」の卑屈な読み方について一言いっておくか

そんなわけで。僕が大好きなアニメ作品の一つに「秒速5センチメートル」がある。今回はその読み方、テキスト論的な話をしてみたい。といっても難しい話ではなく、2chニコニコ動画Twitterでよく見かけるような作品の読み方を取り上げ、サンドバック的に殴るという内容だ。
基本的には作品の読み方なんて各人の自由だし、込められたメッセージも好きに読み取ればいい。以下に取り上げる読み方が、半分ネタで言われていることも承知している。しかし、それらはもうネタとしても見飽きたし、本作を希望の物語として読んでいる僕から見るとあまりに卑屈な読み方に思えて不快だ。だから、そろそろその手の言説は半径1クリックから消滅してほしいなー、と思いこのエントリを書くことにした。
以下の引用でふぁぼったーをリンク元にしてるのは、一連の僕の言説がある程度承認されていることを示すためである。

1 「女は上書き保存、男は別名で保存」

秒速5センチメートルの話をするときに「女は上書き保存、男は別名で保存」という格言(笑)を持ち出されると「そういうアニメじゃねーからこれ!」と言いたくなる。同じ茶化すのなら「秒速は山崎まさよしのPV」の方が内容に踏み込んでないだけよっぽど嫌味がない。

ふぁぼったー / highcampus

もう上記のつぶやきで言いたいこと全部書いちゃってるんだけど、補足しておく。「女は上書き保存、男は別名で保存」とはつまり、「女性は新しい恋人ができれば古い恋人のことを忘れてしまうのに対して、男性は古い恋人のことも覚えている」ということだ。そもそも、この格言(笑)が正しいかどうかに疑問があるけれども、ここでは問題にしない。秒速5センチメートルにこの格言が当てはまらないということだけが言えればいいのだ。
女性、つまり本作の明里は、男性、本作の貴樹のことを忘れてしまったのだろうか。決してそうではない。アニメ版第三話だけを見ても、大人になった明里が貴樹のことを夢に見たのは確かであり、この時点で忘れてはいない(それまで忘れてただろ、とかいう反論は受け付けない)。小説版においてはさらに、明里が貴樹のことを自分の大切な一部と思っていることが書かれている。

(前略)あの男の子との想い出は、もう私自身の大切な一部なのだ。食べたものが血肉となるように、もう切り離すことのできない私の心の一部。
 
貴樹君が元気でいますようにと、窓の外の流れていく景色を眺めながら、明里は祈った。

これのどこが上書き保存なのか言ってみろよ!
一応、ネタではない文脈で「女は上書き保存、男は別名で保存」が使われている例を挙げておく。

私の周囲の男性陣は本作(特に映画)で泣く率が高いらしい。前にどこかで「女は恋愛を上書き保存するが、男は名前を付けて保存する」と書いてあったのを見た時に、秒速の映画を思い出し物凄く納得したことがある。私は、名前を付けて保存してバックアップまで取って大切にしているファイルの中身よりも、そうせずにはいられなかった彼の心情をせつなく思う。けれど申し訳ないことに実はあまり理解はできないのは、私が上書き保存派だからだろうか。でも男性陣が本作を好きだと言う気持ちは分かる、気がする。

小説・秒速5センチメートル (ダ・ヴィンチブックス) 新海誠 tomo*tinさんの感想 - 読書メーター

感傷的な人間、未だ古い恋の傷跡を引きずっている人間には辛い内容だ。管理人も、初恋の女を思い出したからこそ、そしてそれを過去として整理できていないからこそ吐き気を覚えたわけで、冗談交じりにいわれる「男は女を名前を付けて保存、女は男を上書き保存」というような安易に性差で片付けられる問題ではない。

『小説・秒速5センチメートル』 新海誠 epi の十年千冊。/ウェブリブログ

2 鬱アニメ文脈における「耳をすませば」との関係

耳をすませば」と「秒速5センチメートル」を安易にひとくくりにする行為には辟易している

ふぁぼったー / highcampus

【緩募】耳をすませば秒速5センチメートルがよく並べられるけど全然違うだろ、共通点がなくはないけど、それどんだけ卑屈な読み方なんだよ、みたいなエントリ。なければワンチャン自分で書いてもいい

ふぁぼったー / highcampus

いわゆる「鬱アニメ」の文脈で、本作と「耳をすませば」をひとくくりにして、「連続視聴したら辛すぎて死んじゃうw」などというネタがある。これも積極的に排撃しておく。
まず、鬱の質が全然違う。「秒速5センチメートル」で鬱(だとされる)な部分は、「貴樹と明里がとうとう作中で結ばれることがなかったという事実」である。対して、「耳をすませば」では雫と聖司が結ばれる。一見何も悲しいことはないように思えるけれど、ここでいう鬱な部分は「この作品のような青春を送れなかった僕たち」なのである。
前者について。「切ない」なら分かるけど、鬱ではないと僕は思う。結ばれない=鬱というのは思考が単純すぎる。ラストシーンの貴樹の笑顔をして僕は本作を希望の物語だと読んでいるんだけど、鬱だという人はそこをどう読んだのか問うてみたい。アニメ版だけ見て分からないなら小説版を読んでみるといい。最後の一文はこうなっている。

この電車が通り過ぎたら前に進もうと、彼は心を決めた。

これを読んでもまだラストシーンまで含めて作品全体を通して鬱だと言えるものなら言ってみるといい。途中経過だけを抜き出して鬱アニメだと言うのはかなり無理がある。
後者についても、「耳をすませば」を通して自分の人生を振り返り、切ない気持ちになるというのは分かる。しかし、それをもって鬱アニメというのはいささか卑屈すぎないか。鬱なのはアニメじゃなくてお前の人生だろ! と言いたい。
で、さらに前者と後者を「鬱アニメ」というくくりで並べる行為についても批判しておく。既述のように、前者と後者における切なさや悲しみの質は違うものだ。それを安易に一緒くたにするということは、端的に言って理解が雑だし認識が甘い。切ない、悲しいという共通項だけを見て作品の内実を見ないその鑑賞態度が気に入らない。そういう読み方もあっていいけれど、面白くないしネタとしても程度が低いだろう。文学的な面白さというのは、事物を細かく弁別していくことから生まれると僕は思う。

ネタにマジレスした結果がこれだよ! このエントリを読んだ人は上記の二つのネタはもう使わないで欲しい。別に僕の観測範囲で使ったからといって抗議したりはしないけど、「こいつ全然読めてねーなー」とは思うよ。いちいち証明するのもアホくさいようなことをわざわざ証明してるんだから、これ読んだ上で(間違いに気付いた上で)使うってのはそういうことだろう。ぼくのだいすきなびょうそくごせんちめーとるをばかにするな!