記事へのGJ!について

◎三行でまとめた
記事へのGJ!は、その内容に対してか労力に対してかの二種類に分かれる。
僕はつい、内容が自分にとって既知か未知かで善し悪しを判断してしまう。
これからはお互いに誰かの主観である既知とか未知とかを気にせずにブログを書いていこう!



http://d.hatena.ne.jp/funnystone/20071107/1194422856

以下は上記の三行を詳細に書いたもの。

リンク先の記事と論点はずれるけど、記事に対する良い反応(以下GJ!)について。
GJ!の中から二種類挙げると、以下の二つが多いと思うんだな。

  • 自分にとって新しい内容で、書いてくれたことで知識や視点が一つ増えて良かった
  • 内容は知ってて自分も同じこと思ってたけど、それを書いてくれてスッキリした

で、二つの反応は記事主を評価してるとこは同じなんだけど、対象と伴う感情が違うわけ。
前者は「内容と、その内容を思いついたcoolな記事主」に「尊敬」の意味を込めてGJ!してる。
後者は「自分に代わって労力を割いて書いてくれた記事主」に「感謝」の意味を込めてGJ!してる。


んで、ここからは僕がなかなか捨てきれない邪悪な考え。
既知より未知の内容の方が自分にとって新鮮な分だけ感動が大きいし、尊敬しやすい。だから自然と、未知の内容を書く者にはGJ!してしまう。
まあここまではいいんだけど、逆に既知の内容を書いてる者をDISりたくなってくる。これがまずい。

「あえて俺が知ってて言わないことを言って、自分が最初に言ってやったぞーっていうパイオニア気取りの空気が読めない馬鹿が。みんな(というか自分)知ってるんだよそれは。あえて言わないんだよ。空気読めよ。なんでそんな自慢げなの。なんか尊敬してる奴もいるし。そんな文章俺でも書けるんだよ。空気読んで(既出と馬鹿にされたくないから)書いてないだけだ。先に知ってた俺を尊敬しろや。いや、別に俺を尊敬しなくてもいいけど、とりあえずこいつが尊敬されてるのが不愉快」

みたいな気持ちになってくるんだよねー。もうちょい優しく言うなら、
「基本的に僕が他人の創作物に対して敬意を払うのは、自分にない角度から物事を見てるかっていう点に対してであって、『自分でも書けるな、この文章』ってものには、書いてくれた労力に感謝することはあっても尊敬はしないな」
って感じ。


しかしやっぱりおかしいんだよ、こんな考えは。だって未知か既知かは自分の主観だからね。誰かの主観によって記事や記事主がDISられることなんて、無い方が良い。ってわかっちゃいるけど今でも既知のものを心の中で馬鹿にしてしまうことがたまにある。これからはそんなこと気にせずにみんながブログを書いていければいいね。


このエントリは、高校時代の作文コンクールで、高校生なら誰でも持ってるような不安定な気持ちをこれまたありがちなポエムで現した僕の主観では超凡庸な文章が金賞になってて、僕の文章が銀賞だった時のクソみたいな気持ちが、
404 Blog Not Found:知識を呪いから使い魔に変えるオレナリの方法

以前に読んだこの記事と、最初のリンク先の記事を読んで浮かび上がってできている気がする。
また推敲して詩になるもので記事として出そう。