ゲーム「夏ノ雨」 感想

1

そんなわけで。CUBEのADV「夏ノ雨」を終えた。
点数で言うと68点くらい。今思うと原画に印象深いものがなかった。兼清みわもカントクも嫌いではないけど、パッとせず。HシーンはCUFFS系列らしい危うい淫靡が漂っていてよかった。
エロゲー批評空間の各レビューで「タイトルは『夏ノ雨』だけど雨が重要なモチーフとして使われるでもなく、なんだかなあ」と言われてて、これは僕も結局わからなかった。タイトル画面も青空だし。OPムービーの葛藤シーンとEDムービーの冒頭は雨降ってたけど、作品に一貫して雨のイメージがあったとは言えないなかった。

2

理香子。よく苦悩しては家出する難儀な娘。中盤以降、彼女の方から求めることが多々あり、「彼に……抱いてもらってる時が、一番安心できたの」などという台詞からも不安定な精神気質が伺えたが、何とか持ち直した。共通ルートで開き直って「私はあなたのお姉ちゃんなんだから」とか言ってた頃が一番かわいい。
理香子ルートは現実よりの世界設定で恋愛・家族ものをやった結果、昼ドラ・ホームドラマめいた展開に。しかしツッコミビリティ閾値を超えてしまい冷めてしまった。
とりあえず夏子と理香子まわりはソーシャルワーカー精神科医案件なのでは。物語におけるキャラクターの精神的な悩みとその解決について「病院へ行け」というのは無粋かもしれないが、無粋なツッコミをさせるこのお話が悪い。
紺野アスタのサイトとブログを見に行ったら「キャラクター一人一人を愛している」という趣旨のことが書いてあってやっぱりなー と思った。プレイしていてすごくそういう感じはした。自分が愛するキャラクターをプレイヤーに嫌われないようにするための配慮が見えたからね。*1
夏子は序盤からあえてプレイヤーにストレスを与えるキャラとして描かれている。で、実は彼女にも深い事情があって……というところでストレスが解消されるように作ってある。詳しいプロセスはa103netさんのレビュー参照(http://erogamescape.ddo.jp/~ap2/ero/toukei_kaiseki/memo.php?game=12437&uid=a103net)。
ただ、僕はそのプロセスを経ても全てのストレスを解消されたわけではなかった。彼女はかつて心の病気で、と言われたらそりゃあ振り上げた拳は下ろさざるをえない。さすがに病人は殴れないから。でもそれって諸刃の剣で、「病院へ行け」っていう無粋なツッコミが入る余地を作ってしまってる。夏子は発症→療養→社会復帰→発症なので、普通に精神科で根本的治療をうけるべき案件だよ。
僕の中では夏子・理香子関連はもはや家族問題じゃなくて社会問題と化してるので、適切な行政機関に相談して援助受けた方が……と思ってしまう。総じて宗介-理香子-夏子-朋美たちは自分たちで処理しきれるかかなり怪しいレベルの問題を家族内で処理しようとしすぎる。夏子の療養先も実家(宗介からすると祖父母の家)だったし、人間を回復させるものが家族しかない世界観みたいだ。
法とか社会への距離感が遠いのよなー。ラストに示唆される姉弟間の婚姻もいわば脱法的なものでさ。法・社会は助けにならず、時には自分たちの繋がりを阻害するものとして存在し、そんな中で家族や身近な人たちと優しく助け合っていくしかないという認識が作品に通底してるように見える。
もうちょっと家庭外の人間が宗介たちに介入する、あるいは援助する展開があればよかったのだが。せっかく翠たちがいるのに、理香子が家出した時の避難先くらいにしか役立っていない。
そして理香子は、エピローグを読む限り、家庭内に居場所ができたことと社会に居場所ができることを混同してるんじゃないか。家族として承認されたことで所属欲求が満たされたみたいなのでまあよかったんだけど、この娘の欲求って家庭よりもっと広い、友人・知人・果ては社会に居場所が欲しいってことじゃなかったの? 冒頭で街を見下ろしてここに居場所ができるか心配してたから、少なくともあそこに広がった風景程度の尺で考えていいものだと思っていたんだけど。いまいち釈然としない。

4

美沙ルート。澤田なつ、よい。デート中「どこへ行きたい?」と聞かれ、「…………」というテキストに音声のみで「ラブホテル」と囁くところが凄まじかった。全編このルート程度のシリアスさでよかった。
翠ルート。この娘いいやつすぎる。作中他ヒロインのルートでも宗介にとっていいように動きまくる。お話も作品内では比較的よい。志が高い子には惹かれる
ひなこルート。(ふーりんの声が聴けて)幸せです! 他ルートでも出番があるとよかったね。

5

サブキャラ。香奈が作中でジョーカーレベルの便利さだったけど、理香子に惚れた弱み、というところで無敵感減らしてバランス取ってるところは巧いと思った。
一志は、作品の価値観が彼の価値観に寄り添ってる。つまり、一志が言ってること(「本気で好きならしがみつけよ」)が作品の主張と近しいということ。だからこのゲームが好きな人は一志も好きなはずで、人気あるんだろうな、と思った。
このへんで夏子と並んで二大ストレス源になってるサッカー部監督について。1ルートだけで判断はよくないかと思ってたけど、結局4ルート全て終えても「宗介の起こした事件後に関係者全員を集めた話し合いの場があった」ことを確認できなかったのでこの人ダメだという認識は覆せず。
普通あの手の事件があったら、顧問・監督・部員、場合によっては保護者も含めて部の全員が集まって事件の経緯から今後の対応まで後腐れないよう話し合うもんだと思うんだけど。そしてこの話し合いは宗介の意志に関わらず行われるべきなので、宗介が不参加だろうが関係ない。
監督の役回りは宗介の甘さの克服なので、監督宗介間のコミュニケーションで受けるストレスは仕方ないかなと思う(宗介も態度悪すぎなので6:4で監督が正しい)。ただ、宗介の甘さと全く関係ないところでやるべきことができてないから、監督の言葉に説得力があまりない。
特に翠ルートの「宗介は退部ではなく休部扱いだったが、監督が顧問の先生に口止めしていた」はひどすぎる。「人を試す」ということには相応の慎重さとフェアネスが求められると僕は思っていて、そこからすると事実の隠蔽は完全にフェアネスを欠いてる。
他ルートでもそうなんだけど、宗介の今後について戻れるなら戻れる(可能性がある)、戻れないなら戻れないをはっきり関係者全員に通告すべきだった。実際は監督の胸先三寸で復帰という、それどうなのよ的な形に。
いや、いるけどさ、「お前の態度次第では考えなくもない」って形式上は相手に責任を転嫁しつつ自分の線引きで物事決める権利は保持したままの奴は。ただ、そういう人と折り合い付けられるようになるのが成長、という筋でお話作りたかったとは思えないのね。恋愛のサイドストーリーとしてはごみごみしすぎる。
顧客が本当に欲しかったものは「うーん、これは8:2か9:1で主人公が悪いなあ。泥臭く頭下げてお願いするしかないよなあ。それも一つの成長やで」と思わせてくれるような監督像だった。
bbspinkの作品別スレで監督批判のレスを探してきた(このあたりでどれほど僕が怒っているかお察し)ので掲載しておく。
http://highcampus.tumblr.com/post/29916695394/539-sage-2009-10-29-00-59-28
http://highcampus.tumblr.com/post/29915471295/174-sage-2009-10-01-23-19-58

6

理香子・夏子まわりの家庭観・社会観に違和感があり、監督の不快さでだいぶ気分を損ねた。

というwrydreadさんの感じ方は頷けるところで、結局ダメな大人の中で寄り添い合う子供たちを愛おしむ作品だったのかな、と思う。
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*1:しかし、夏子はともかくサッカー部監督は失敗している。

ゲーム「聖もんむす学園」 レビュー

1 序

そんなわけで。Vanadisの新作「聖もんむす学園」をクリアした。
公式サイトには"俺(人間)と彼女(魔物)の異文化コミュニケーション"、"種族を超えた友愛を手に入れ給え"とあるけど、実際には種族の壁なんてなかったというのが第一印象。
以下、「プリンセスX」の感想を踏まえて。

2 作風

シナリオ。種族の壁なんてなかった、は言いすぎかもしれないけど、超えるべきハードルが低いことは確かだ。そもそもVanadis「魔物娘」シリーズ世界の人間と魔物には絶望的な断絶がない。
魔物の精神性は人間とほぼ同じ。学び舎の魔物娘たちが繰り広げるガールズトークなんて、目をつぶって聞けば人間のそれと変わらない。プリインストールされた魔物の常識は人間と異なるが、それも人間からしてみれば驚きはするものの許容の範疇。言語が人間と共通のものであることで意思の疎通がだいぶ捗っている。キャッチコピーの"異文化コミュニケーション"はそのまま、人魔の境界が文化レベルの違いでしかないことを示唆している。
世界設定の話で言えば、Vanadis「魔物娘」作品における人間と魔物はかつて戦争を行った過去を持つ。しかし「戦争」とは利害調整の果てに発生するものであり、そこには利害をやり取りするだけの余地がある(あった)ことを意味する。少なくとも「殺戮」、種の存亡をかけた殺し合いではなかったようだし。
これだけ条件が整っていると、前提として人魔共存が不可能だとは思えないんだよね。いや、実際作品内で時代とともに共存の流れはできていくんだけど、最初から可能だとわかってるから共存実現に伴うカタルシスが薄い。不可能を可能にするのではなく、おそらく可能だが過渡期なのでまだごたついている問題を処理する形になっている。
僕の好みは「相互理解など到底不可能な相手をそれでも想わずにはいられない」だったりするので(このあたり、今木さんに影響されている)、この作品の雰囲気はいささか微温的だった。そういうゲームじゃねーからこれ、というのは最初から承知していたことではある。

3 恋愛、魔物娘の精神性

人間と魔物娘との恋愛については「ならでは」の要素がもっと欲しかった。だってこれ、シナリオのほぼ全体を通してヒロインを人間の女の子に交換可能でしょ。
コメットはドールだから人間との間に子供が生めないとか、細かいところでは魔物娘ならではの要素が話に絡んでくるんだけど、それらも1ギミック、1ガジェットに留まってしまい、連結して「魔物娘の恋愛」を形作ることに貢献しているとは言い難い。
ここにおいて、魔物娘の精神性を人間に近づけたことが裏目に出る。人間と魔物娘との恋愛が実質的・精神的には人間と人間との恋愛になってしまっている。そうして見ると、恋愛の過程であまり大したことはやってないんだよね。
主人公シンクがルートヒロインとコミュニケーションする過程ですれ違いが発生→他の魔物娘たちの話を聞くことでシンクが反省→「ごめん悪かった」「いえ私こそ」で解消、という流れが何度もあるんだけど、このへんしょうもないなーと。
人間と魔物の恋物語が人間同士のそれと交換可能、ということ自体が(人魔の境界は既に取り払われているという意味で)素晴らしい、と擁護できなくはない。しかし、さすがに強弁ではないか。
言い方を変えればね、こと人間同士の恋愛描写に優れたエロゲーってのはこの世にいくらでもあるわけだ。で、この作品内で描かれた人間と魔物との恋愛が人間同士の恋愛と大差ないなら、当然その恋愛は既存の作品における恋愛と同じ視線で見られることになる。場合によってはには他作品の優れた恋愛描写と比較されることだってあるだろう。果たして今作の恋愛描写はその視線に耐えうる強度があるか? ということ。
シナリオに関しては厳しめの評価をしたけど、ところどころよかった部分もあった。僕としてはミリータルート終盤あたりが好ましかった。「他者に迷惑をかけてしまう」というミリータの悩みと、「人間に害を与える」という魔物の本質(マイ定義。念のため)が近しいから、あれをもうちょっと掘り下げれば「魔物娘の恋愛」が描けるように思う。

4 魔物娘の身体性

精神性を人間と区別することが難しい以上、Vanadis作品における人間と魔物娘の一番の差異は身体性・肉体性に見出すしかない。
幸い、このメーカーはぶぶづけの原画を中心にして魔物娘の身体性を描くことに長けている。魔物娘としてスタンダードでわかりやすいキャラクターデザインを前提として、Hシーンのプレイ内容やイラストの構図は独創性があり、魔物娘「ならでは」のよさを感じる。
シナリオに関しても、身体性を基点に置いたほうがよいのかもしれない。「人間に害を与える魔物」から加害者と被害者、あるいは強者と弱者、はてはSとMの構図を導き出す。すなわち、「人を傷つける魔物」と「魔物に傷つけられる人間」。
今作でも、シンクは各ルートで試練のような形式で肉体的に痛い目にあうことが多い。それはよい。たとえ魔物の力によって傷ついてもヒロインのために何かを成し遂げようとする主人公の姿は単純にかっこいいし、魔物娘ものの王道ではある。
圧倒的な身体能力や異能によって人を傷つける(可能性がある)魔物を、人は愛することができるか。人間と魔物との間の壁って、異文化とかそういうことじゃなく、結局この不均衡なパワーバランスなのでは。
問題はその身体性を発揮する場の作り方で、ここにはまだ伸びしろがある。
典型的な例は学園外部のモブキャラの素材不足。これはヒロインの立ち絵バリエーションとの間で優先順位を付けた結果だと思われるので仕方ないけれど、シレーネやビビのルートに盛り上がりが欠けた要因の一つ。
あと、主人公を傷つけるのはヒロイン自身の方がいい。ヒロインの出自である一族の誰か、とかじゃなくってさ。ヒロイン以外の魔物なんざにいくら傷つけられても「痛く」ないわけよ。他ならぬ彼女から受ける苦痛だからこそ刺さるのであって。「スライム&スキュラ」のラキスさん、あれが理想(過去にやったから今回は別のネタにしたという見方もできるけど)。

5 キャラクター

シンク:英語にすると「think」なのだろうか。身体性が大事だという話をしたところでこういう名付けされると困る。とはいえ、肝心なところでは足を使って行動するタイプの主人公だからそれほど不満はない。むしろ思慮不足で飛び出す場面があったりしてそっちの方が危ない。
リン:嫉妬深さはいいんだけど、自分のルートでシンクを拒絶する流れは残念だった。
シレーネ:思いの外よかった。方向さえ誤らなければしっかりしたいい娘だし。Hシーンでは意外な正常位が見られた。
ビビ:立ち絵の下乳がよい。自分のルートに入って初めて愛を理解するこの娘が、他のルートで愛だの恋だの口にする時どんな気持ちなんだろう、と想像せずにおれない。
コメット:一番可愛い。この娘は「つよきす」のカニみたく、文・絵・声等が絶妙に噛み合った結果生まれた、いわば奇跡の産物という感じがする。けっこうピーキーというか危ないバランスで成り立っている。スラング担当でパロネタも口にするけど、これ以上やると鬱陶しいな、というギリギリのところで踏み止まれているし、話し方もギリギリ鼻につかない。Hシーンは「後背位ではキスができない(やりづらい)」という長年僕が悩んできた問題を、身体を分解することによって解決したことが素晴らしい。
ミリータ:ラミア族は安定してエロい。いい子なだけにアクが強い他のヒロインに押され気味だったのが悲しい。
ヴェーラ:僕はラキスさんが好きすぎるから、母親と比べると……というところはあるけど嫌いではない。
キューテ:素敵な先輩教師のお姉さん。立ち絵もそそる。
ファム:正体はすぐわかるけど攻略がafterまでおあずけなので辛い。
他、歴代作品の登場人物が影に日向に現れて助けになってくれるところは、「ラミア」以降のシリーズ全作をプレイした者として胸が熱くなった。過去作ヒロインの娘さんを攻略するというのは不思議な感慨がある。

6 他

graduationのシンクは京アニKanon」ばりに全ヒロインの問題を解決したってことかしら。すごいな。
ヒロインの立ち絵は総じてハイクオリティ、魔物娘の身体に制服・私服を合わせるセンスもあって非常によかった。
音楽も過去作から継続して磯村カイ(TONAKAI sound works)が務め、シリーズものとしての統一感があった。
特典の「リンの翼膜」はいいアイデアだった。肌触りもよし。

7 結

念願のフルプライス魔物娘エロゲが世に出たことは喜ばしい。自分の魔物観からすると望ましくないところもあったが(僕はクトゥルフ擬人化系人外娘をもっと切り開くべきではないか。「沙耶の唄」「這いよれ!ニャル子さん」は好きなわけだし)、HシーンなどVanadis魔物娘シリーズならではのよさも堪能でき、そこは満足している。
今後の魔物娘シリーズのさらなる発展を祈る。
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タカヒロ論「憧れのあとさき」後記

書籍版あとがき

そんなわけで。美少女ゲームとそれを語る言葉に惹かれ、ついにこのような作家論を執筆するに至りました。勢い余って長大な文章となってしまい申し訳ありません。本論に対するご意見・ご感想をお待ちしています。
論考対象であるタカヒロ氏に改めて敬意を表します。また、編集者then-d氏を初め、前書と本書における論者の方々や、交流させていただいているゲーマーの方々には本論を書くにあたって多大な恩恵を受けたことを深く感謝します。
それではまた、憧れのあとさきでお会いしましょう。

改稿表

「恋愛ゲームシナリオライタ論集2 +10人×10説」の原文から今回のWeb版を公開するにあたって改稿した部分をここに記す。

p.104

原文:[…]記述された世界は確かに偽史であるけれども、
改稿:[…]記述された世界は確かに偽史的であるけれども、

p.106

原文:[…]タカヒロは何故かここにおいて美少女ゲームの「お約束」を守り続けている。
改稿:[…]タカヒロはここにおいて美少女ゲームの「お約束」を守り続けている。

p.112

原文:犬神帆波と犬神歩笑という二人の姉妹がヒロインとして追加された本作は、抜きゲーよりだった前作から転身し、いわゆる「萌えゲー」として展開した。
改稿:犬神帆波と犬神歩笑という二人の姉妹がヒロインとして追加され、明るい主題歌が付き、要芽に復讐するという目標がなくなった本作は、前作よりもいわゆる「萌えゲー」の色を濃くしている。

p.113

原文:9791は「姉しよ2」が[…]
改稿:レビュアーの9791は「姉しよ2」が[…]

p.118

原文:両親がを亡くした久遠寺三姉妹は
改稿:両親を亡くした久遠寺三姉妹は

p.119

原文:執事として新たにその姿を更新させたという森羅の、延いてはタカヒロの自負が見られる。
改稿:執事として新たにその姿を更新させたという森羅の自負が見られる。

Web版あとがき

「恋愛ゲームシナリオ論集2+10人×10説」の原稿執筆当初、タカヒロ論は僕ことhighcampusとなしお(id:LoneStarSaloon)氏の二人が担当するはずでした。僕の構想では、僕が総論、なしお氏が各論的なことを書くことでうまくネタかぶりせずにタカヒロの全てをカバーできると思っていました。

上記のようななしお氏の言葉もあり、「プロフィールと作品史を大まかにまとめて、クリティカルな論考はなしおさんに任せればいいだろう」と気楽に考えていたところ、なしお氏がWeb上で行方不明になってしまいました。あの時は大層焦りましたよ! おかげ様で、一人でやるしかないというプレッシャーを力に変えてなんとか総論+各論を仕立てることができました。
執筆のモチベーションとなったのは「俺がタカヒロの素晴らしさを喧伝するんや!」という気概、特に2ch的な評価に対する強い怒りでした。執筆当時、2chbbspink周辺を観測した限りでは、タカヒロ作品といえばパロディネタと豪華な声優陣ばかりが取り沙汰され、それ以外の要素に光が当てられることはほとんどありませんでした。タカヒロ作品から(大げさに言えば)生きる元気をもらった僕にとって、それは到底我慢できることではなかったのです。
本文の内容を振り返ると、気負ったあまり前のめりになっているところが散見されて恥ずかしいです。参考文献として多くの書籍・URLを挙げて無茶な援用をしていますが、それも「俺の好きなタカヒロを正当化できればなんでもよかった。今は反省している」という感じですね。
初稿が書かれた2010年はちょうど「まじこい」と「まじこいS」の間の時期にあたり、区切りとしてはいいタイミングで書けたものだと考えています。
「+10人×10説」頒布後の2011年には、様々な方から本論に対して反応を頂き、嬉しく思っています。今回の改稿にあたって参考にさせてもらいました。特に、復活したなしお氏からお褒めの言葉を頂戴した時には報われた気がしました。
2012年現在、タカヒロ氏は変わらずにみなとそふとでゲームを作り続けており、社内の仕事としては「まじこいS」に続いて「まじこいA」や「辻堂さんの純愛ロード」の企画に携わっています。これからも一人のファンとしてその活動を追って行く所存です。
前述した2ch的な評価は未だWeb上から払拭されきっておらず、掲示板で「タカヒロはパロと声優だけ」という主旨の書き込みを見る度カチンと来ることに変わりはありません。しかし、「タカヒロ論を書いて世に問うた」という自負があるだけ、以前よりも心中穏やかに過ごせています。
本論をWebに公開したことで、より多くの方にタカヒロ氏の魅力が伝われば喜ばしい限りです。
最後に、この論考を敬愛する川神一子へ捧げます。

「憧れのあとさき」Web版(下)(「恋愛ゲームシナリオライタ論集2 +10人×10説」所収)

4.作品論

第二章ではタカヒロのプロフィールを、第三章ではタカヒロのシナリオライティングを論じてきた。本章では、それらが実際に「明るく楽しい」キャラゲー制作に貢献していることを、タカヒロ作品の読解を通して確認する。
既述のように、タカヒロ作品はホームコメディと学園コメディに分類できる。しかし、本章ではきゃんでぃそふと作品からみなとそふと作品への通時的発展を重視し、発売順に各作品を見ていくこととする。筆者は、特にタカヒロ作品の集大成として『まじこい』を肯定的に捉えており、それ以前のタカヒロ作品読解においても、『まじこい』に通じる要素を発見することを主な目的としている。そういう意味で本章は『まじこい』ありきの作品論となっているが、一般的なタカヒロ作品の通史として読まれることにも配慮したつもりだ。

4.1.姉、ちゃんとしようよっ!

2003年、ブランド「キャンディソフト」が「きゃんでぃそふと」と名を改め、初めて世に送り出した作品が『姉しよ』である。「ヒロイン全員姉属性」を謳った美少女ゲームとしてヒットした。*1原画家は白猫参謀であり、以後『きみある』までのタカヒロ作品は全て彼が原画を担当する。
ワールドは2003年の鎌倉であり、別のゲーム企画の設定を引き継いだ影響で、ルートによっては超自然的な事象が起こることがある(『姉しよ2』も同様)。キャラクターは主人公の柊空也、メインヒロインの柊6姉妹、その他サブヒロイン・サブキャラクターで構成される。柊家というメインコミュニティでヒロイン達と過ごす日々がストーリーとなる。
本作が姉ゲーとして高く評価された理由として、ヒロイン達がキャラクターとして個性的であること、キャラクター同士の掛け合いがコメディとして面白く、コミュニケーションがキャラクターを魅力的に見せること、恋愛関係において姉属性の不変性を保ったことが考えられる。

4.1.1.個性的な姉達

『姉しよ』のヒロイン達が個性的であることについては論を待たないだろう。姉という共通の属性を持ちながら、6人のヒロイン達がそのキャラクターを被らせることなく存在している。本作の時点では、キャラクターのバイタリティが十分に発揮されたとは言えない。また、サガのような性質は柊雛乃や柊巴に散見される。

4.1.2.柊家におけるコミュニケーション

本作の特徴は、それぞれの姉が個別的に魅力を発揮するのではなく、コミュニケーションによってその姿を魅力的に映すということだ。例えば、柊高嶺は主人公や巴に対しては強く出るけれども、憧れの存在である柊要芽には弱く、また柊家というコミュニティの外にいる人間に対しては「外交モード」という素の性格からかけ離れた状態を見せる。
このような多面性は他のキャラクターについても同様のプロセスで描かれる。第三章で示した通り、コミュニケーションによってキャラクターは様々な他者との関係性を表し、自身をアイデンティファイする。主人公とヒロインとしての二者関係はその中の一つだ。プレイヤーは総体として豊かなアイデンティティを持つキャラクターを確認し、魅力を感じる。

4.1.3.姉属性の不変性

タカヒロ作品におけるヒロインは、主人公から見て基本的に上位に存在する。タカヒロが描く恋愛を単純化すれば、何らかのポイント(姉弟関係、強気、主従関係、武士の凛々しさ)で「一段上の女性」であるヒロインを攻略し、「落とす」(惚れさせる)話である。タカヒロはそのストーリーにおいて、上位に存在したヒロインを落とす喜びをたびたび強調する。特に主人公がヒロインとのセックスにおいてバック(後背位)の体位を取る時、その喜びは最も強く表れている。*2『姉しよ』の柊要芽ルートなどは「一段上の女性」を落とす話の最たる例であるけれども、極端すぎる描写があるために『姉しよ』やタカヒロ作品全体に対する誤解を招く恐れがある。解説が必要だろう。
本作はいわゆる「抜きゲー」よりの作品として制作されており、以降の作品とはゲームデザインのレベルで違いが見られる。一番主要なヒロインである柊要芽は、ルートに入るための制限こそ掛かっていないものの明確にラスボス(最終攻略対象)として存在し、彼女と恋愛関係になることを最終目的としてゲームがデザインされている。主人公はゲーム冒頭で受けた要芽からの性的暴力に対抗できる強靱な精力を得るために他の姉と性行為を営み、その過程でまた恋愛が発生する。*3このような事情から、本作における主人公と要芽の力関係は危ういバランスの上に成り立っている。作中で主人公と要芽が行う性行為のほとんどは、どちらかが優位に立って相手を隷属させるようなものだ。これは一見、先ほど述べた「一段上の女性」を落とす恋愛に合致しているかに思える。
しかし、タカヒロ作品の恋愛において「一段上の女性」を落とすということは、決して性的に隷属させて主人公より「一段下の女性」に落とし込むことを意味しない。攻略後においても、ヒロイン達は「一段上の女性」で在り続けるのが原則である。『姉しよ』においてヒロインが女性上位であるポイントは「姉属性」である。「一段上の女性」で在り続けるために、彼女達は主人公と恋愛関係になっても姉であることを捨てない。それをもっとも簡潔に示しているのが、要芽ルートのエンディングにおける要芽の台詞である。

要芽「私のやりたい事は、あなたを守ること。例え、つまらない、前時代的、と言われようとも。それでも。一緒にやっていきたい」
要芽「姉として、女として」
(『姉しよ』要芽ルート エンディング「姉ちゃんとしようよ」)

攻略されて主人公と恋人になった後も、ただの女になる(「一段下の女性」になる)のではなく姉(「一段上の女性」)で在り続ける。姉ゲーとして『姉しよ』が高く評価された最も大きな理由はこうした「姉属性の不変性」にある。*4

4.2.姉、ちゃんとしようよっ!2
4.2.1.『姉しよ』からの継承と発展

『姉しよ』の好評を受けて2004年に発売された続編が『姉しよ2』である。ワールドは2004年の鎌倉で、前作の各メインヒロインとある程度関係を進めつつも誰とも結ばれていないという設定だ。犬神帆波と犬神歩笑という二人の姉妹がヒロインとして追加され、明るい主題歌が付き、要芽に復讐するという目標がなくなった本作は、前作よりもいわゆる「萌えゲー」の色を濃くして
いる。
レビュアーの9791は『姉しよ2』が『姉しよ』から姉属性の不変性を継承した上で姉弟愛の描き方を発展させたとしている。ここに筆者が付け加えられることはほとんどないように思う。

この作品の場合は、物語上では、あくまで「姉」を描写し、「姉」が「女」に成り下がりません。ヒロインは「姉」であることが前提であり、そのためには、Hシーンすら姉の性格付けのために利用するほど(ですから、本番が無いHシーンもありますね)の徹底ぶりです。この作品ではたとえ「姉」とラブラブになろうが、主人公の「姉」達への呼び名は変わりませんし、その関係は、姉弟からの発展形として扱われます。しかも、その姉弟愛の描き方が8通りあり、それが各々ヒロインの性格をよく表したものに仕上げているのですから、「姉しよ」のキャラクター造形の巧みさには凄まじいものがあります。
[…]
私が、このシリーズ、特に「2」を高く評価するのは、決して多くないテキスト量で、立場上同じ筈の「姉」を8通り個性を確立させただけでなく、ここまで恋愛論とその思考法を比較している点です。物語そのものは、コメディ色が強く、ストーリーも褒められたものではありませんが、「姉」8人書き分けきった・・・という点だけでも、それは評価に値します。シナリオ偏重の潮流の中、キャラを配置すれば、キャラを喋らせれば、勝手に物語が紡げそうなゲームは珍しく、このようなテキストを素直に書ける人というのは、非常に貴重だと思います。この作品から見れば、「FateType-Moon)」や「Air(Key)」等は、エロゲーの亜流です。本来のエロゲーとは、物語を「エロく」楽しむものであり、物語の粗が気にならない、ご都合主義を受け入れられる雰囲気を作るということは大変なことです。
*5

『姉しよ2』は『姉しよ』の要芽のようなラスボスを配置せず、8人という数多い姉達のルートを平等に存在させているから、広く薄く散漫な印象を受けるのは確かだ。各ルート内のストーリーも、主人公とヒロインが結ばれる時点で終わってしまうものが多い。
しかし、エピソードの連結構成に不足があるとはいえ、各エピソード単位では二人が恋人になるまでの過程が前作以上にしっかりと描かれていると言える。タカヒロは、それぞれのヒロインが持つイメージをコミュニケーションによって巧く更新し続けた。その結果として8人の姉の在り方が明確に差異化され、総体としてこのゲームを豊かにしていることは間違いない。

4.2.2.歩笑と空也

各ルートで示されるヒロイン達の恋愛観や人生観を比較検討するのも面白いけれど、本論では特に歩笑ルートを考察してみたい。このストーリーからは、タカヒロ作品においてヒロインと主人公が問題を解決する基本的な図式が読み取れる。
歩笑はかつて空也に物を贈るために海に潜って溺れかけたことがあり、それがトラウマとなって以来海に入ること(泳ぐこと)を体が拒むようになってしまった。歩笑ルートにおいて、彼女はそのトラウマを克服しようと努力し、空也もそれに協力する。最終的に歩笑は再び海で泳げるようになるのだが、それは主人公が直接的に歩笑のトラウマを除去したからではない。歩笑は、目の前で溺れた秋山いるかを助けるために、なりふり構わず海に飛び込んだことによってトラウマを克服した。

ぽえむ「気合で! 入ってしまいさえすれば恐くない……」
ねーたんはジャブジャブと泳ぎ始める。
俺はいつでも助けられる準備をしながらねーたんを見守った。
(『姉しよ2』歩笑ルート 8月7日)

ここでは、行動によって心理が更新されていることも重要だが、空也が歩笑の問題を解決する主体ではないことを最たる特徴として捉えたい。歩笑が自分の問題解決に対して主体的になる一方で、空也はただヒロインの側で補助に徹し、歩笑が問題を解決する過程を見守る。前章の言葉を用いれば、ヒロインが主体的キャラクターとなり、主人公が主観的キャラクターになっていると言える。これがタカヒロ作品で問題解決が行われる際に見られる、ヒロインと主人公の基本関係である。

4.2.3.姉属性で統合される柊家と犬神家

今作で追加された2名のヒロインである犬神姉妹は、「ライバル」や「お隣さん」という形で柊家(柊6姉妹)の比較対象として機能している。主人公が属するコミュニティと対照的なコミュニティを用意する手法は、以降の作品においても踏襲される。『つよきす』の竜鳴館学園2-Cに対する2-A、『きみある』の久遠寺家主従に対する九鬼家主従、『まじこい』の川神学園2-Fに対する2-Sなどがそうである。相似形のコミュニティとコミュニケーションすることで、キャラクター達は互いにその在り方を差異化され、魅力を発揮していく。
ところで、『姉しよ』と『姉しよ2』には三人以上で行われる性行為(いわゆる「nP」、「姉妹丼」)が数多く用意されている。『姉しよ2』にはハーレムルートに該当するものも存在する。『つよきす』以降にはハーレムルートがない。このような特徴は、『姉しよ』が抜きゲーよりの作品として生み出されたことにも由来するけれども、筆者は姉属性の特性から説明するのがふさわしいかと思う。
姉という属性は、『姉しよ2』のメインヒロイン達を「お姉ちゃん達(柊6姉妹+犬神姉妹)」という家族的なコミュニティとして一つにまとめる機能を持つ。彼女らはお姉ちゃん達であるからこそ、弟である主人公空也に対して一丸となった性行為ができると考える。*6

4.3.1.学園コメディの原型

2005年に発売された『つよきす』は「ヒロイン全員強気」というコンセプトで制作された。しかし、実際には「強気」よりもいわゆる「ツンデレ」属性の流行を意識して宣伝され、受容された。本作はタカヒロが書く学園コメディの原型である。
ワールドは2005年の松笠市(現実の横須賀市に該当する)である。『姉しよ』シリーズの鎌倉に比べると、『つよきす』の松笠は街の様子がより詳しく描写されている。しかし、松笠が一つの街としてコミュニティ(セーフティネット)たり得ているかについては疑問である。コミュニティには構成員が必要であり、本作で街の構成員として描かれている人間はカレー屋の店長くらいしかいないからだ。
本作でメインとなるコミュニティが、竜鳴館学園と対馬ファミリーである。主人公達が通う竜鳴館は、漫画的に人間離れした武力を持つ橘平蔵学長の管理下にある学校で、自由な校風を持つ。対馬ファミリーは主人公対馬レオとその幼なじみである蟹沢きぬ、鮫氷新一、伊達スバルが構成するグループだ。
竜鳴館をさらに細かく見ていくと、対馬ファミリーが所属するクラス2-C、そのライバルクラスとして認知されている2-A、対馬ファミリーとその他のヒロイン全員が構成する生徒会(場所としては竜宮という生徒会室)という三つのコミュニティがある。9791は『つよきす』において、 「“家族”と呼ばれるイメージの機能不全」が 「レオの家と竜宮とを、単なる生活空間から“家族がまともに機能していない子供達の寄り合い所帯”へ切り替え」、その中心人物としてレオが存在すると指摘している。*7
こうして舞台を家から学校に移すことで『姉しよ』シリーズよりも多層的なコミュニティを作ることに成功した『つよきす』は、各コミュニティ内/間でキャラクターを積極的にコミュニケーションさせている。竜鳴館においては各種学校行事が盛んであり、その手のイベントによって2-Cと2-Aが対抗したり生徒会が活動することでストーリーが盛り上げられる。本作のキャラクター達はそのようにして多面的な魅力を形成している。
竜鳴館は教育の一環として学生同士の競争を煽りながらも、決して「明るく楽しい」日常が失われないような配慮もしている。筆者はそれをもって竜鳴館をセーフティネットとして評価している。ただし、tdaidoujiはこのような舞台装置としての学校の機能よりも、キャラクター達が学校を出ようとする力の方が勝っていると見る。

かつて小世界として完結していた学園は現在では殆ど成立しなくなっている。つよきすも常にヒロインたちが学園の外側に出ることを前提にシナリオが展開していく。エキセントリックな学園長もエキセントリックな校風も派手なイベントも強力な学生自治も、ほんのいっとき期間限定の世界を維持するための道具立てではあるのだが、逆に言えばそのようなインパクト重視の、受け手が慣れてしまえば次第に機能を失っていくしかない道具立てをそれと理解しながら用いることでしか結界は維持できない。*8

筆者も竜鳴館が期間限定のコミュニティであることは了解しているし、セーフティネットといっても『つよきす』において竜鳴館が果たしている機能は実質的に学生に対するモラトリアムの提供くらいしかないと思う。後述するように、コミュニティが持つセーフティネットとしての機能は『まじこい』でさらに発展する。そこでは、学生だけでなく大人に対しても「明るく楽しい」世界が保証されるようになった。しかし、「大抵の人は幼いままで大人になります。50歳でも60歳でも10代の子どもと基本的には変わりません」*9というtdaidoujiにとっては、そのような発展もモラトリアムとして一括りにされるだろう。モラトリアムの定義に対する意見の相違はあるものの、筆者もtdaidoujiが指摘するような、セーフティネットたるコミュニティから出ていこうとするキャラクター達に関心がある。そのような動きもまたバイタリティの一つの表れであろう。

4.3.2.自立するキャラクター

キャラクターデザインにおいて、タカヒロは本作から男性キャラクターにも著名な声優を配するようになった。さらにボイスの面白さを意識してキャラクターをコミュニケーションさせることで「明るく楽しい」掛け合いを作り出している。
それはさておき、本作では前述したキャラクター達への祝福が特に顕著である。彼らは皆一様にバイタリティを備え自立して生きている。また、本作の受容史として、ヒロインのツンデレ属性についてtdaidoujiが記した論考を取り上げる。

よっぴーが主人公と結ばれなくても、彼女は今その場で、おそらく平均よりは遥かにアグレッシブで楽しい学園生活をごく当り前に送っている。それは、それ自体でかけがえのないものですし、そうした学園生活の経験が彼女のその後の人生に何の影響も与えないとは思いません。*10

バイタリティとは、どんな状況においてもその状況なりに前を向いて生きていく力である。引用部分の佐藤良美を始めとして、タカヒロ作品において主人公と結ばれなかったヒロイン達がそれでも不幸な者として終わらない(とプレイヤーが想像できる)のは、彼女らが皆一様にバイタリティを持って主人公から自立しているからだ。同じ理由で、主人公達がどのルートに進んでいったとしても、彼らはそのルートを肯定的に捉えて生きていく。
良美ルートには『白詰草』と『片手に白百合、片手に薔薇』という二つのエンディングがある。前者が正規的なエンディングであり、後者はバッドエンディングに近いけれども、後者のエンディングもまた一つの道としてレオの主観からは肯定的に描かれている。このようにどのルート(人生)をも肯定的に捉えて生きるバイタリティは『まじこい』へと引き継がれていく。
自立というキーワードは、ツンデレとしてのヒロイン達の在り方にも繋がっている。

さておき、「つよきす」の優れているのはツンデレ理解です。ツンデレという語をヒロインの人格に押し付けることを避け、「ツンツンからデレデレへ」「男性主人公にだけデレデレ」といった定義されている行為を全て周囲の状況、シナリオ展開に依存するものとして読み込んでいく。[…]シナリオと主人公は彼女たちを突き放します。デレデレの状態をゴールとしないのですね。*11

本作のメインヒロインルートにおいては、レオとヒロインが恋人となった後も話が続いていく。ツンデレとして見たとき、彼女らは付き合うまでがツンツンした状態であり、付き合った後はデレデレした状態になるけれども、タカヒロはそこからさらにストーリーを一ひねりさせている。『つよきす』における恋愛は、主人公とヒロインが互いを自立させる過程で展開する。引用先で語られる椰子なごみルートと良美ルートは、「彼女たちを突き放す」ストーリーである。
鉄乙女ルートにおける恋愛が成就するまでの過程、乙女のトラウマである雷への恐怖*12などは重く書かれない。むしろそのテキストはネタ混じりで軽くなっている。そうした小事件を経て結ばれた後に、レオが乙女の在り方を「一段下の女性」に落とし込もうとすることから問題が起こる。結局、乙女は「レオの姉(従姉)」として「一段上の女性」である不変性を再確認して満足する。霧夜エリカルートも同様で、エリカはレオの恋人にはなっても、レオの中の霧夜エリカ像には囚われない。きぬルートはきぬが直情型で裏表がないために二人の関係自体は終始バカップルである。その分の屈折や葛藤はレオとスバルとの間で起こり、スバルが自身の夢を叶えるために対馬ファミリーから去るという形で自立していく。*13大江山祈ルートでもレオは祈を変質させることはない。むしろ祈の在り方はレオの「テンションに流されない」という平常時の在り方を突き詰めたものとして肯定される。これらのルートは逆にレオが彼女たちから突き放されるストーリーとなっているし、『姉しよ』で説明したような不変性を読みとることもできる。
また、レオは最初「テンションに流されない」ことを信条として主体性を喪失しかけたキャラクターとして描かれる。つまり、自分の問題に対しても主観的キャラクターとなり、主体的キャラクターではなくなっている。そこから、ヒロインや親友と交流し、彼らが主体的に生きる姿を主観として見るうちに主体性を取り戻していく節がある。『つよきす』の時点では、獲得した主体性をほとんどヒロインとの恋愛に向けている(それが主人公自身の問題だからだ)ために理解しにくくなっているけれど、主人公が自身の問題において主観的キャラクターから主体的キャラクターへと変貌することもキャラクターの自立として重要である。*14
こうして互いを自立させるキャラクター達が青春を謳歌するストーリーは、群像劇の様相を呈してくる。この群像劇的なストーリーは、『まじこい』に継承されていく。

4.4.君が主で執事が俺で

きゃんでぃそふとを脱退したタカヒロみなとそふとを立ち上げ、再び「明るく楽しい」キャラゲーを掲げてゲーム制作を続けていった。2007年にみなとそふとがブランド処女作として発売したのが『きみある』である。本作は制作期間の関係でシナリオが十分に練られていたとは言えず、後に『きみあるCS』において加筆修正がなされた。

4.4.1.家族の再構成

2007年の七浜市(横浜をモデルとした都市)が本作のワールドである。メインとなるコミュニティは七浜の住宅街にある久遠寺家だ。久遠寺家は、主と従者から構成される家族的コミュニティである。主は久遠寺森羅、久遠寺未有、久遠寺夢の三姉妹である。両親を亡くした久遠寺三姉妹は大佐(田尻耕)を親代わりの執事とした後、同様に身寄りがなかった朱子南斗星、ハル(清原千春)を個別に従者としてスカウトしてきた。ここに、主人公上杉練とその姉上杉美鳩が加わる。
上杉姉弟の父である上杉巌は練の母を亡くし、再婚相手である美鳩の母(美鳩は連れ子である)も亡くし、自暴自棄となり練に家庭内暴力を振るうようになってしまった。二人はそれに耐えかねて家出し、久遠寺家に拾われた。
ホームコメディとして『姉しよ』シリーズの系譜を汲む『きみある』だが、上記のように久遠寺家は家族を失った経験がある者達が構成するコミュニティであり、家族ではなく疑似家族である点で柊家や犬神家とは異なっている。そして、疑似家族であるが故に、彼らは柊家や犬神家以上に相互扶助を行い、家族的に振る舞おうとする。久遠寺家は家族的コミュニティとしてセーフティネットの機能を発揮しているが、本作ではそれが自然にあるものではなく、意志を持って作り上げ獲得するものだと示されている。
愛する者を複数回失い絶望してしまった巌は、『姉しよ』の要芽と同じ歪みを引き継いでいると言える。空也は要芽を熱烈に愛することでその歪みを取り除いたが、練は暴力を受けたことから父を嫌悪しているため、巌を助けてくれる者はいない。それは「暗く悲しい」ことではあるけれども、その辛さに甘えず練との和解を模索しろと森羅や美鳩は巌を説き伏せる。これは、単に家族を持つ者が持たざる者へそのダメさを説教をしているわけではない。久遠寺家の面々がそうであったように、きっと誰にでも(巌にも)「暗く悲しい」喪失を乗り越えて家族を再構成し、前向きに生きていくバイタリティが備わっている、ということだろう。本当に救いようがなくダメな人間だとすれば、巌は見捨てられるはずだからだ。
セーフティネットを一度失い「暗く悲しい」世界に落ちようとした者達が、それでもバイタリティを持って再びセーフティネットを再構成し、「明るく楽しい」人生を歩んでいこうとする。コミュニティとセーフティネットという角度から見る『きみある』とは、そのような物語である。

4.4.2.他者からの感化、イメージの更新

さらに、『きみある』のストーリーに見られる他者との関係性の特徴について述べておこう。
一つには、他者からの「感化」がある。例えば、森羅ルートにおいて巌を乗り越える練の姿を目の当たりにした森羅は、それをきっかけに偉大な父親という存在から自立している。未有ルートでは、身体への不安から生まれた未有の不老不死願望を、未有が発明したロボットであるデニーロが自爆という形で喝破する。デニーロの亡骸を前にした未有は考えを改める。*15
その他の感化のパターンとしては、アナスタシア・ミスティーナのエピソードがある。アナスタシアはマゾヒストとして自身が受けるあらゆる苦痛を喜びとして感じる、ある意味で無敵の存在であり、稲村圭と共に夢の親友だった。その彼女が、夢ルートにおける夢と圭の仲違いを見て、初めて苦痛を告白する。自分の痛みは喜びであっても他者の痛みは喜びではない。これも、他者の姿から受けた感化と捉えてよいだろう。
もう一つ、ストーリーから発見できるのが、キャラクターが他者との関係性においてその姿を更新し、魅力を発揮することである。これは『姉しよ』から『つよきす』までと同じくコミュニティとその中で行われるコミュニケーションによってキャラクターのイメージが新たになるということである。
森羅ルートでは、「巌の息子」や「美鳩の弟」であるという練のアイデンティティに、「森羅の執事」であるというアイデンティティが加わり、それが練をより強く魅力的にしていることが言及されている。

巌「ふざけるな、どんなに開き直ろうがオレをけなせばけなすほど、息子であるお前自身が惨めになっていくんだ!」
森羅「だが、上杉練はこの私の執事でもある!」
(『きみある』森羅ルート 5月12日)

「でもある」という言い方には、親子関係の不変性を認めつつも練をその関係に縛らせず、執事として新たにその姿を更新させたという森羅の自負が見られる。
また、美鳩ルートにおいても、巌は美鳩が実家にいた頃と比べて性格が変わっていることに驚く。これに対して美鳩は、彼女が本来そういう性格であり、それまで発揮する機会がなかった性質が久遠寺家というコミュニティを獲得することで露わになったのだと説明する。巌が持っていた美鳩に対するイメージは更新されている。
このように、『きみある』のストーリーからは、他者との関係性における感化やキャラクターイメージの更新を見出すことができる。

4.5.真剣で私に恋しなさい!

2009年、みなとそふとは武士娘恋愛ADVとして『まじこい』を発売した。本作は十分な期間と資源をかけて制作された、タカヒロの集大成とも言える作品である。原画家はwagiが担当した。筆者は『まじこい』をタカヒロの、またはみなとそふとの、あるいは現代における美少女ゲームの、一つのスタンダードであると認識している。

4.5.1.「川神」というセーフティネット

『まじこい』のワールドは2009年の川神市である。川神は現実の川崎市偽史的な想像力をもってリファインした都市であり、武術寺として有名な川神院(川崎大師がモチーフ)を力学的な中心としていること、武士の家系が多いことなどが特徴だ。*16川神院のトップ川神鉄心は川神学園を運営し、そこに主人公達が通ってラブコメディを展開する。つまり、本作のメインコミュニティは川神学園≒川神院≒川神市であり、これを本論では鉤括弧付きの「川神」と呼ぶ。タカヒロ作品はこれまで家族や疑似家族、学校をメインコミュニティとして据えてきた。本作でも学校としての川神学園は重要なコミュニティであるけれども、それ以上に「川神」が持つセーフティネット機能に注目したい。川神学園の運営母体である川神院の影響力が街全体に及んでいることによって、「川神」は都市規模のセーフティネットとして働いている。
これは、『まじこい』が大作化して立ち絵付きのキャラクターが40人を超えたことと無関係ではない。本作には川神市の商店街で本屋を営む店長や、仲見世通りにある和菓子屋の娘である小笠原千花、教師と並行して何でも屋をやっている宇佐美巨人など、街に根を下ろしたキャラクターが数多く存在する。それぞれのキャラクターの生活圏をしっかりと記述することで、無機的に描かれがちな街というコミュニティが有機的なセーフティネットとして機能する。
さて、タカヒロ作品の学園コメディのストーリーを単純化すれば、セーフティネットが用意された上での競争となる。セーフティネットによってキャラクター達を守りながら競争させ、そこで生じるコミュニケーションから恋愛や青春を描いていくのがタカヒロのスタイルだ。『まじこい』においては、「川神」の管理下で様々なイベントが行われるが、それらは多くの場合競争や闘争である。川神百代ルートの川神大戦がその最たる例だ。
つよきす』作品論で述べたように、筆者はセーフティネットをモラトリアムから弁別している。キャラクター達が挫折や失敗をしても再起できるのは、彼らが若者だからというだけではない。タカヒロ作品全般において変えられない過去や不変性の象徴として存在する親世代のキャラクター達も、『まじこい』では人生をやり直せる再起可能性や可変性を持っていることが示唆されている。そのやり直しに際しても『きみある』で見てきたような他者からの感化が存在する。*17
さらに、「川神」は「川神」に害を為そうとした釈迦堂や板垣一家を再びその内部に取り込んでいる。かつての敵ですら吸収していく「川神」のセーフティネット機能は恐るべきものである。板垣竜平だけはその網に囚われず、自身のサガにしたがって街を出る。そのようにセーフティネットを抜けて危険な外界へと出ていくキャラクターの動きも、タカヒロは肯定的に書いている。
クリスティアーネ・フリードリヒ(クリス)のルートは、主人公とヒロインがセーフティネットの外に出て行くストーリーとして読んだ時、『まじこい』の中でも異質なルートとなる。序盤こそ川神学園の中で繰り広げられる典型的ラブコメディであるけれども、中盤以降でクリスの父フランク・フリードリヒに交際を反対された二人は川神学園を退学し、自立した生活を始める。さらにクリスが父に連れ去られれば、大和は風間ファミリーと呼ばれる仲間達と共にドイツまで彼女を奪還しに行く。退学してから最終的に復学するまでの間、「川神」のセーフティネットから完全に独立したわけではないし、風間ファミリーというコミュニティのセーフティネット機能に頼ったことも確かだ。それでも、学校を辞めて海外にまで飛び出すという大和の姿は、葵冬馬というキャラクターの主観を通して肯定された。
冬馬は大和のライバルであり、また『まじこい』ラストルートにおけるラスボス的存在である。彼は各メインヒロインルートのエンディングにおいても悪の道に走ったことを思わせる記述がある。しかし、クリスルートのエンディングにおいては何処かへと姿を消す。冬馬が生き方を変えたのは、愛に生きる大和の姿に感化されたからであることがクリスルートのテキストから想定されるし、『クリスアフター』*18においてもそのように書かれている。
クリスルートでは「川神」と風間ファミリーという二重のセーフティネットが大和を守り、大和が「川神」を超えても風間ファミリーは依然として大和を助け、その大和の姿に冬馬は感化された。これを踏まえると、ラストルートで冬馬が大和達を倒すために「パレード」を引き起こし、「川神」と風間ファミリーの両方を壊そうとしたのが自然なこととして受け入れられる。*19
つまり、ラストルートとはキャラクターを守り「明るく楽しい」日常に留めるために張られた複数のセーフティネットを冬馬が全て破壊しようとする話として読むことができる。*20
以上のように、タカヒロは作品の根幹で「明るく楽しい」を保証するセーフティネットについてかなり自覚的である。彼は今後どういった方向性のストーリーを見出すのだろうか。
一つには、セーフティネットの中で生きる者達の「明るく楽しい」日常をラブコメディとして描くという旧来の方向がある。もう一つは、セーフティネットを脅かすものと戦い、それをもってセーフティネットをより強大に再構成させるという方向。最後に、セーフティネットを離れようとする者達を描く方向がある。『まじこい』はこうした異なる性格を持つストーリーを共存させることで、総体として豊かになった。タカヒロがマルチエンディングのADVという形でゲーム制作を続けるのであれば、どれか一つを選ぶのではなくそれぞれの方向性を常に比較しながら発展させていくことも可能だろう。
ライトノベル作家浅井ラボは次のように述べ、娯楽の将来を案じている。

娯楽系から、作者の本気の憎悪と殺意が詰まったような作品が、急速に消えているんじゃなかろうか。受け手の不快感を極力取り除いていこうとする、優しい作品が増えたように思う。危険なのはギャグ。安全な(仮想の危なさ、または他版権に触れるよ危ないよ、みたいな安全さ)な笑いでどうする。*21

タカヒロが書くセーフティネットとしてのコミュニティは、ともすれば単なる無菌装置として働く恐れもある。筆者は敢えて使ってこなかったけれども、それは一般的に「楽園」という言葉で表すことができる。しかし、タカヒロのポテンシャルはそうした悪い意味での楽園をすら克服していくと信じたい。例えば、タカヒロは『アカメ』の漫画原作において既存のタカヒロ作品とは違うダークな作風を打ち出している。みなとそふと以外の場で「明るく楽しい」とは違うストーリーを作り、そこで得たものを何らかの形で還元できれば、タカヒロ作品は「安全な笑い」を超えたコメディをも表現できるはずだ。

4.5.2.川神一子は挫けない

『まじこい』が以前のタカヒロ作品から継承し発展させてきたのはコミュニティやセーフティネットに留まらない。川神一子ルートでは、本論で示してきた他者との関係性によるアイデンティファイ、不変性と可変性のバランス感覚、バイタリティの発揮、主人公における主体と主観の分離などが見られる。
一子は出生後すぐに孤児となり、里親を経て川神院の娘となった。義姉である百代を補佐するために川神流の武術で高みへ昇り師範代になる、という夢を実現させるために一子は努力したものの、それは叶えられなかった。アイデンティティを喪失しかけた一子は、自身のルーツを辿るために孤児院があった土地へと向かう。だが、結局そこからは何も得られない。「自分は何者なのか」という一子の問いに対して、大和は「大和の恋人」、百代は「川神院の娘であり百代の義妹」というアイデンティティを改めて提示し、一子はそれを受容する。キャラクターの姿は過去ではなく常に現在における他者との関係性の中からしか見出すことができない、ということをはっきり表したストーリーだ。*22
結局、一子は師範代になることを断念するものの、姉を慕い支えようという気持ちは過去から一貫して不変であり、師範代に代わって姉を助ける方法を見つけることができた。同時に、武術を学んできた過去を肯定する。このように、一子ルートでは過去という不変性と現在(における他者との関係性)という可変性のバランスが取られている。*23
また、一子が師範代を目指す過程や挫折からの復帰において彼女のバイタリティが発揮されている。主人公の主体と主観については本節第四項で他のヒロインとまとめて語ることにする。

4.5.3.これはこれで

『まじこい』のキャラクター達は持ち前のバイタリティにより、ありえたかもしれない可能性を想像しながら現在を全力で肯定する。マルチエンディングに伴う選択という問題を、彼らはそうやってクリアしている。本作では、自分達が歩んでいる人生がいくつかある可能性の中の一つであるという意識が複数のキャラクターの口から語られる。しかし、時折他の可能性に思いを馳せることはあっても、彼らは「いま、ここ」で自分達が歩んでいる可能性から離れようとは思わない。

“あの時こう動いてたら、俺はどうなっていたんだろう”と夢想してみた。
それは、しょせん妄想遊びに過ぎなかった。
今の俺は自分で、出来る事出来ない事をわきまえたに過ぎない。
……俺はいつから、大人になったのだろう。
今日も1日が終わる。
これはこれで1つの幸せだった。
(『まじこい』百代ルート 百代あきらめエンド)

『まじこい』のゲームとしての目的は主人公がヒロインと結ばれることであるけれども、結ばれなかったエンディングは必ずしも「バッド」エンディングとして描かれない。むしろキャラクター達は「これはこれで」良しとしている。それはネタとして解釈することもできるが、どちらにせよ、あらゆる選択結果を受け止め「明るく楽しい」人生へと向かっていくキャラクター達にはバイタリティが備わっていると言えよう。『つよきす』の項で説明したバイタリティの発揮による現在の肯定が意識的に受け継がれている。タカヒロは、一つ一つの可能性を肯定し、全てのルートを正史的に捉える思想に基づいて『まじこいS』を制作していると述べている。*24

4.5.4.主人公とヒロイン

『まじこい』のヒロインにはバイタリティが備わっているから、彼女らの問題を解決するにあたって本来的に主人公の存在は必要条件ではない。百代、クリス、一子、椎名京、黛由紀江というメインヒロインの問題解決にあたって大和が行うことは主観としての援助や補助であって主体の肩代わりではない。主人公として主観的キャラクターにはなっても、主体的キャラクターとはならない。
さらに、冬馬と井上準に付き従い悪の道に走ろうとする榊原小雪に向かい合っても、大和が問題解決の主体とならなかったことは特筆に値する。何故なら、他ならぬ大和自身が幼少時に小雪を救わなかったために小雪の心が壊れてしまったという事実があるからだ。
しかし、大和が犯したこの罪は過去のものとして水に流される。小雪自身はむしろ大和に一度見捨てられたことが冬馬や準と出会う契機になったとして肯定的に捉えている。それ以前に、彼女は大和を恨む心自体が壊れるという形で自立しているから、大和を必要としていない。だから、大和が小雪に「明るく楽しい」日々を(例えば小雪の恋人になることによって)直接的に与えることはなく、冬馬や準、小雪の悪事を止めることで間接的な救いを施すに留まった。
『まじこい』は様々な形で「誰かが他者の人生における主体になることは不可能だ」ということを繰り返し示している。主人公とヒロインは寄り添い合いながらも決定的に他人である。作中にはそれを示す絵がいくつか存在する。一つが京ルートでドア越しに大和と会話する京の絵だ。タカヒロが描く主人公とヒロインの間には常にこのドアのようなものが挟まれて互いを自立させるため、主人公はヒロインを直接的に助けることができない。
ラストルートのエンディングムービーで表示される小雪のCGもまた、主人公によって救われないヒロイン(主体的キャラクターとして自身を救うヒロイン)の姿として象徴的である。*25やがてやってくるであろう、小雪が冬馬や準と過ごす「明るく楽しい」日々もまたラストルートのエンディングで一枚絵として描かれる。大和は、ただそれを想像するだけの主観である。
以上のように、タカヒロは『まじこい』における主人公をヒロインが抱える問題解決の主体から切り離している。とはいえ、主人公があらゆる主体性を失うわけではない。主人公が抱える問題には、主人公自身が主体性を持って取り組んでいる。*26
そうでなければ主人公とヒロインは対等に恋愛関係を築くことができない、というのがタカヒロの描く恋愛観であり、その代表例が百代ルートである。大和は「一段上の女性」である百代と対等になるために、彼女を恋愛によって性的に隷属させ「一段下の女性」にすることではなく、自分自身を高め「一段上の男性」になるような努力をした。
ヒロインもまた、主人公が抱える問題において主人公を直接的に救ったりはしない。さらに、主人公がヒロインの問題に対して行うような補助についても行っている様子がない。この非対称性は、ヒロインの問題が主人公の問題に先行することに起因する。つまり、彼女らは自身の問題に対して主体的に取り組むことで忙しく、主人公はそんな忙しい彼女らを手伝い、彼女らの問題に間接的に関わることで自身の問題に対して意識的になっていくということだ。そして、主人公は先行者に何らかの施しを受けるのではなく先行者の姿に感化されることで、[助けられることなく助かっていく](注:原文では傍点)。一子ルートでは、一子に感化された大和が自身の在り方を変えようとする様子が分かりやすく示されている。

あの高い目標と努力には、正直尊敬した。
俺も、ワン子のようにありたかった。
……まだ、遅くないかな。
(『まじこい』一子ルート 6月7日)

他者の姿によって、自分の生き方を変えるほどに感化されるということ。端的に、それは憧れである。

5.結

この章をもって本論を終えることとする。最後に、筆者がキャラゲーとしてのタカヒロ作品から考察した、美少女ゲームプレイヤーとキャラクターの関係について述べる。

5.1.憧れ

憧れとは、主観的キャラクターが主体的キャラクターに視線を向けることで生じる感化である。主体から切り離された主観としての主人公は、主体としてのキャラクターを求めて視線を移動し、主体的キャラクターの姿に感化されて自身を変容させていく。感化されるためには肯定的な感情を伴って同一化することが必要であり、同一化とは他者の中に自己を見出すこと(感情移入)である。言い換えれば、憧れとは他者(主体的キャラクター)の姿に自分(主観的キャラクター)が「こう在りたい」と思う姿を発見することである。
タカヒロ作品においては、主人公がヒロインに憧れるのと同じプロセスで、プレイヤーもヒロインに憧れることができる。ただし、プレイヤーは必ずしも主人公と同じ対象に憧れているとは限らない。その時主体的になっているキャラクターであれば、それがたとえルートヒロインでなくても、サブヒロインでも、男性キャラクターでも、主人公までもがプレイヤーにとって憧れの対象となる。
さて、既述のようにタカヒロ作品は『つよきす』と『まじこい』を中心に群像劇化してきている。ここで、群像劇の特徴として「より多くのキャラクターに対するプレイヤーの同一化」に注目したい。
ストーリーが群像劇的であることで、プレイヤーは作中の様々なキャラクターに同一化することができる。同一化は主人公格のキャラクターに軸を置きながら、様々なキャラクターへとスイッチされていく。それは、逆説的にプレイヤーがどのキャラクターからも適切な距離を保った存在であることを示す。プレイヤーとキャラクターは他者である。他者であるからこそ、プレイヤーはキャラクターに憧憬の気持ちを抱く。それは、ストーリーの中でキャラクターが別のキャラクターに対して抱く尊敬や羨望と同じものだ。
プレイヤーと主人公が合一するのは、両者が主体を剥がされ、主体的キャラクターを憧れの視線で眺める主観的キャラクターとなった時である。換言すれば、プレイヤーは「主体的キャラクターに憧れるキャラクター」という主観を手に入れることでより深く作品に没入していく。
憧れは引力と斥力を持つ。タカヒロ作品のプレイヤーは魅力的なキャラクターに惹きつけられるけれども、最終的には突き放されるだろう。『まじこい』作品論における主人公とヒロインの関係から分かるように、タカヒロが書くキャラクターは主体的で自立した存在だからだ。
しかし、キャラクターに突き放されるからこそ、プレイヤーは憧れによって得たものを作品から現実へ、自分自身の生へと持ち帰ることができる。タカヒロ作品においてプレイヤーが憧れから得るものとは、人生への肯定感と主体性であろう。
これまで、タカヒロ作品が如何にして「明るく楽しい」を表現してきたのかを論じてきた。さらに、「明るく楽しい」が何を生み出したのかという問いに対する答えがこれだ。タカヒロ作品を通して「明るく楽しい」日々とそこに生きるキャラクター達に感化されることは、自分の人生に肯定感を持って生きていくことを意味する。
さらに、プレイヤーと主人公の同一化がプレイヤーに主体性を与える。『まじこい』において、主人公は作中で主観的キャラクターとして誰かに憧れ、感化されて主体的キャラクターへと成長する。その主人公と同一化してきたプレイヤーは、主観的存在であった自身もやがて主体的存在となる予感を抱くだろう。*27では、どこで主体的となるのか。ゲームから離れたプレイヤーが立つのは、現実という自分自身の人生をおいて他にあるまい。

5.2.プレイヤー、キャラクター、シナリオライター

美少女ゲームのプレイヤーとキャラクターが同一化するにあたって何より貴いのは、同一化しているという状態ではなく、同一化できるという可能性でもなく、同一化したいと望む気持ちである。自身の問題に対して主体的で自立したキャラクターが魅力的に見えた時、プレイヤーはその姿の中に自己を見出したいと思う。そして、彼らの歩みが「明るく楽しい」人生として映った時、そこに自分の人生を見出したいと願う。
主観的キャラクターと同じものに憧れていることを知った時、筆者はキャラクターと自分が同一の地平に立っていることを認識する。それは、自分自身を「主体的キャラクターに憧れるキャラクター」として捉えることでもある。ストーリーに引き込まれ、テキストを通してキャラクターの内面に近づき、憧れる。ついには自身をキャラクター化する。それでも、最後に筆者が還るのは現実である。
筆者は憧れによって主観から主体へと成長し、現実を理想に同一化しようとする力を得る。理想を生きるキャラクターの中に自分と共通する内面を見出した時、現実を生きる自分もまた憧れたキャラクターのように在ることができるのではないか、理想に向かって進むバイタリティが自分にも備わっているのではないか、「明るく楽しい」日々を過ごす可能性が自分にもあるのではないかという希望が生まれる。
タカヒロが作り上げ、タカヒロ作品がキャラゲーとして達成し、筆者がなぞったのは、美少女ゲームに基づくそのような憧れのプロセスである。
一つの美少女ゲームを通して、キャラクターに出会い、憧れ、自分の中に彼らと同じものを見出し、それを大切に抱いたまま去っていく。プレイヤーたる筆者がシナリオライターたるタカヒロに殺されたとすれば、その死は紛れもなく彼が生み出したキャラクターへの憧憬によるものだろう。*28
我々はただ、憧れのあとさきを生きる者達である。

*1:2003年は同様に姉萌えをテーマにしたゲームが多く発売された年であり、後に「姉ゲー元年」と呼ばれる。参考:『全姉連会報』創刊号(全姉連、2003年)http://www.zenaneren.org/contents/lab/

*2:バックという体位には女性上位のヒロインを落とした証という意味が込められていることを、タカヒロ自身が言及している。(『姉、ちゃんとしようよっ!公式ファンブック 愛と罵倒の日々』MCプレス、2003年)。『姉しよ』から『まじこい』に至るタカヒロ作品において、体位をバックにしたHシーンは、各メインヒロインに最低一つは用意されるのが原則である。

*3:言わば、要芽以外のヒロインのルートは寄り道である。しかし、その寄り道=要芽以外のヒロインの存在が、ヒロイン相互のコミュニケーションを生み、『姉しよ』を総体として「明るく楽しい」キャラゲーにしている。

*4:『全姉連会報』創刊号

*5:『ASTATINE:「姉、ちゃんとしようよっ!1&2」評。』http://blog.livedoor.jp/april_29/archives/13944077.html

*6:強気属性や武士娘(凛々しさ)属性では、このようにヒロインを結束させることは難しい。そもそも、複数人でのセックスを肯定的に描くには参加者の合意が必要であり、そのような合意は家族並みに近しい間柄でないと形成できない。ホームコメディとして『姉しよ』の血を引く『きみある』では、主従ヒロイン達が家族的な絆で結ばれているから、自然な形で3P(「主従丼」)が行われていた。しかし、「主従」という属性は一従者である主人公に対してハーレムを形成するほどの力を持たない。ある程度現実に近いタカヒロワールドの性倫理観では3Pというストーリーを既述するのが限界であり、ハーレムを書こうとすると無理が生じるので断念せざるを得ない、ということではないだろうか。

*7:『ASTATINE:「つよきす」評。』http://blog.livedoor.jp/april_29/archives/50054659.html

*8:『ハー○イ○ニー観察日記  なんかてきとうに 教師について』http://d.hatena.ne.jp/tdaidouji/20060828#p1

*9:『ハー○イ○ニー観察日記  なんかてきとうに つよきすPC版』http://d.hatena.ne.jp/tdaidouji/20060819#p1

*10:『ハー○イ○ニー観察日記  なんかてきとうに つよきすPC版』http://d.hatena.ne.jp/tdaidouji/20060819#p1

*11:『ハー○イ○ニー観察日記  なんかてきとうに つよきすPC版』http://d.hatena.ne.jp/tdaidouji/20060819#p1

*12:このトラウマ克服においても、レオは乙女の隣に座るだけであり、補助はしても救済はしない。タカヒロ作品の問題解決におけるヒロインと主人公の基本関係を守っている。

*13:同時にレオもスバルから自立する。きぬルートは対馬ファミリーというコミュニティ自体を扱ったストーリーでもある。

*14:レオが主体性を失いかけるきっかけとなったトラウマ的過去は『つよきす』では語られず、『つよきすMH』の近衛素奈緒ルートとそれを基にして作られた『みにきす』のシナリオで明らかになる。

*15:デニーロが自爆するに至るまでのエピソードの連結自体は短絡的であるものの、他者の姿に感化される未有は印象的である。

*16:2010年4月1日のエイプリルフールイベントとして、みなとそふとは「川神市のWebサイト」を立ち上げ、より詳細に川神の街とそこに生きる人々の様子を表現した。

*17:主人公直江大和の父は日本に絶望して海外へと去っているが、大和が日本を良くしていこうとする姿に感化されれば戻ってくるかもしれないと語っている。ラストルートにおいては、ルー・イーや釈迦堂刑部といった大人達も考えを改めている。そのような大人達は子供のまま大きくなった者達だから、大人の再起も結局はモラトリアムに回収されるという考えもあるだろう。筆者はそれを否定しない。

*18:真剣で私に恋しなさい!ビジュアルファンブック』所収、(エンターブレイン、2010年)

*19:冬馬がコミュニティに取り込まれないで完全に悪に染まるためには「川神」や風間ファミリーに再生不可能なほどの被害を与える必要がある。だが、片方を潰すだけではもう片方のセーフティネットによって再生されてしまうことがクリスルートで明らかになっている。

*20:冬馬が正体を隠すために使った「マロード」という名前は「客神(よそから訪れる人)」を指す。これは冬馬が「川神」というセーフティネットに取り込まれたくないという意志を表したものとして読める。

*21:http://twitter.com/ASAILABOT/status/29470109756

*22:一子のアイデンティティを他者との関係性から示した百代もまた、戦いを望むサガを持ちながら風間ファミリーにおける関係性の中で自己を保っている。このような点で川神姉妹は相似している。

*23:ただし、可変的なものとして常に更新されていくキャラクターの姿をプレイヤーが適切に受容しているかは疑問である。その受容態度については今後さらに論考を深めたい。

*24:坂上秋成司会・構成、「【鼎談】王雀孫×桜井光×タカヒロ美少女ゲームの突破口――新たなる『楽園』を探して」(『PLANETS vol.7』所収、第二次惑星開発委員会、2010年)

*25:冬馬と準と小雪が写った写真が散らばる部屋の中で、二人から離れてしまった小雪はただ一人で三角座りになり、じっと彼らが帰ってくるのを待っている。これは、『つよきす』において同じく三角座りになって雷を克服しようとする乙女の姿を描いたCGの継承として見ることができる。

*26:『まじこい』における大和の問題とは、かつて持っていた「国を動かせるだけの人間になりたい」という夢を半ば諦めてしまっていることである。

*27:『まじこい』ラストルートエンディングにおいて風間ファミリーが解散するシーン(CG)は、まさにプレイヤーがキャラクターと別れて自立することをも示唆している。

*28:田吉法「『なにが三十一人を殺したか』――WHOより語り、HOWへと至る」(『恋愛ゲームシナリオライタ論集30人30説+』所収、theoria、2010年)にあるように、コミュニケーションとは一方的なものであり、作品読解とは一つの誤読だと言える。そして、憧れもまた他者への一方的な誤解だろう。

「憧れのあとさき」Web版(上)(「恋愛ゲームシナリオライタ論集2 +10人×10説」所収)

1.序

これから展開する文章は、ゲームクリエイタータカヒロについての論考である。タカヒロが手がけた美少女ゲーム*1のシナリオを題材にして、シナリオライターとしての彼の達成を明らかにするものである。
最初に、注意事項を記しておく。現在*2タカヒロ美少女ゲームシナリオライターであると同時にみなとそふとの代表であり、企画、ディレクター、その他の職も兼任している。対して、筆者は美少女ゲームの一プレイヤーである。そのため、あるゲームの制作過程において、タカヒロシナリオライターとして行った作業範囲を弁別することは難しい。
そもそも、ゲーム制作に関わる多数のスタッフの中からシナリオライターだけを取り上げて論じることはナンセンスであるという意見もあろう。*3
しかしながら、本論ではシナリオライターとしてのタカヒロの職能について、他の職能から厳密な選り分けを行うことはしない。筆者はタカヒロが企画・シナリオライターとして参加した作品を「タカヒロ作品」と呼ぶことにし、シナリオライターであるところのタカヒロの姿は各タカヒロ作品のテキストを通して認識することを基本姿勢とする。*4同時に、企画やディレクターとしての作業、原画家や他スタッフとの連携作業なども便宜的にシナリオライターの仕事、つまり広義のシナリオライティングとして語る。企画段階から作品全体に多大な影響を与えるクリエイターとしてのシナリオライターを想定し論じることには意義があると筆者は信じる。*5
以上のことから、本論はシナリオライター論というよりはクリエイター論に近い。同時に作品論の集成でもあり、ブランドとしてのみなとそふと論にも隣接するものである。本論のこのような性格については了承してもらいたい。
なお、本論ではネタバレへの配慮は行っていない。しかし筆者は、タカヒロ作品をまだプレイしていない読者も歓迎する。本論をきっかけとしてそのような読者がタカヒロ作品の新たなプレイヤーとなってくれることを祈る。

1.1.本論の目的

タカヒロは、きゃんでぃそふと在籍時代からみなとそふとを立ち上げて現在に至るまで、美少女ゲーム制作について一貫した姿勢を取り続けている。それは、みなとそふとのWebサイトにおいてブランドのスタンスを表明した一文から読み取ることができる。

みなとそふとについて
みなとそふと」のゲームは明るく楽しいものを目指し作成しています。
分かりやすい企画を重視し、フルボイスによるキャラクター同士の賑やかな掛け合いやストーリーを楽しんで頂ければと思います。宜しくお願いします。
みなとそふと代表 タカヒロ*6

タカヒロ作品は「明るく楽しい」をその基本理念とする。本論では、タカヒロが如何にして「明るく楽しい」性質を表現したのか検討することを第一の目的とする。
また、タカヒロ作品はキャラクターを積極的にコミュニケーションさせることで魅力的に描く、「キャラゲー(キャラクターゲーム)」を志向している。タカヒロ作品がキャラゲーとして何を達成したのか検討することを本論における第二の目的とする。
本論がタカヒロ作品、延いては美少女ゲームに対する新たな認識を読者に提供し、それが各人のゲーム体験をより豊かにすることがあれば、筆者としてこれ以上の喜びはない。

1.2.本論の構成

本論では、まず、タカヒロのプロフィールについて述べることで彼の人物像を結ぶ。次に、理論としてタカヒロのシナリオライティングをワールド、ストーリー、キャラクターの三つに分けて考察する。それぞれがどのように「明るく楽しい」「キャラゲー」制作に貢献するのか、いくつかのキーワードに基づいて論じていく。続いて、作品論を置く。タカヒロ作品を発売順に概説し、先に説明した理論が各作品において具体的に現れていることを確認する。最後に、タカヒロがその作品を通してプレイヤーに何を提示したのかについて論考する。

2.プロフィール

本章では、タカヒロ作品の理解を助けるものとして、タカヒロという人物そのものの像を結ぶことを目的とする。最初に略歴を記述し、タカヒロが関わったゲーム・非ゲーム作品について主なタイトルを挙げる。次に、タカヒロの嗜好をまとめる。これはタカヒロの系譜を探ることにもつながる。*7
しかし、筆者の興味は系譜論にはなく、機能論にこそある。

[…]建築にたとえていえば、個々の材木が吉野杉であるか米松であるかをいうのは、系譜論の立場だ。できあがった建築が、住宅であるか学校であるかをいうのは、機能論の立場である。*8

つまり、シナリオライタータカヒロを形成したものや彼に影響を与えたものは何かという、その由来からタカヒロを考えるのではなく、彼の作品が私たちプレイヤーにどのように働きかけるか、どういった意味を持つかという観点からタカヒロを考えたいということだ。本論は、そのような筆者の関心に基づいて書かれていることを告白する。

2.1.略歴

タカヒロは、主に美少女ゲームの企画・シナリオを手がけるクリエイターである。現在、美少女ゲームブランドみなとそふとの代表を務める。彼の経歴を簡単に紹介しよう。
1981年に生まれ、学生時代にプログラムを学んだ後、株式会社インターハートシナリオライターとして入社した。『少女人形〜愛と飼育の日々〜』(ぷちDEVIL、2002年)*9でシナリオを担当し、次いで『悪戯4〜俺たちの戦闘車輌〜』(INTER HEART、2002年)*10にもシナリオライターとして参加した。
初めて企画・シナリオ・ディレクションとして制作したのが『姉、ちゃんとしようよっ!』(きゃんでぃそふと、2003年)*11である。以後、『姉、ちゃんとしようよっ!2』(きゃんでぃそふと、2004年)*12、『つよきす』(きゃんでぃそふと、2005年)においても企画とシナリオを担当した。『つよきす』のコンシューマー移植作『つよきす〜Mighty Heart〜』(プリンセスソフト、2006年)*13ではシナリオ、『つよきす』のファンディスク『みにきす』(きゃんでぃそふと、2006年)ではシナリオディレクションのみを行った。
2006年にインターハートから退社し、株式会社ホークアイを起業して、ブランドみなとそふとの代表としてゲーム制作を続ける。『君が主で執事が俺で』(みなとそふと、2007年)*14、『きみある』のコンシューマー移植作『君が主で執事が俺で 〜お仕え日記〜』(みなとすてーしょん、2008年)*15、『真剣で私に恋しなさい!』(みなとそふと、2009年)*16で企画・シナリオを担当する。
現在は、『真剣で私に恋しなさい!S』(みなとそふと、2011年以降発売予定)*17と『太陽の子』(CollaborationS、2011年以降発売予定)のゲーム制作に携わっている。
ゲームのメディアミックスにおける仕事としては、ドラマCDのシナリオや、アニメ版『きみある』のシリーズ構成と一部脚本、漫画の原作などがある。ゲーム以外では、雑誌『BugBug』におけるメディアミックス企画『15美少女漂流記』(サン出版、2009年)*18のキャラクターと世界観原案、雑誌『月刊ガンガンJOKER』で連載されている漫画『アカメが斬る!』(スクウェア・エニックス、2010年)*19の原作を務める。以上が、現在までのタカヒロの略歴と制作作品である。
第一章で記したように、本論ではタカヒロが企画・シナリオを全て担当したPCゲーム作品を「タカヒロ作品」と定義し、論考の対象とする。すなわち『姉しよ』、『姉しよ2』、『つよきす』、『きみある』、『まじこい』がそれにあたる。このように選定した理由の一つは、『姉しよ』から『まじこい』に至る一連の作品が、共通して「明るく楽しい」「キャラゲー」を目指して制作されているからである。もう一つの理由は、タカヒロ自身がPCゲームにおける仕事経歴をそのように公表していることだ。*20
本論はタカヒロが志向する「明るく楽しい」「キャラゲー」について考えるものであるから、異なる路線で作られた『少女人形』、『悪戯4』はその対象外とする。また、『つよきすMH』、『きみあるCS』については、移植作であり原作と根本的には変わらないこと、筆者が未プレイであることから言及は最低限に留める。『みにきす』も実質的にタカヒロが関わっていないことを鑑みて、主だって取り上げることはしない。また、本論が「恋愛ゲームシナリオライタ論」という体で書かれる事情から、非ゲーム作品である各種ドラマCD、アニメ版『きみある』、『漂流記』、『アカメ』についても積極的な参照はしない。

2.2.嗜好

タカヒロ 自分は薄く広くということを意識していますね。自分の場合、社長も兼ねているので、売り上げを出さないことには話にならない。[…]広く一般受けすることを目指しつつ、色々な要素を取り入れて自分なりに料理しているという意識でやっていますね。ただ、自分もすごいオタクですし、自分が楽しくないようなゲームは作りたくない。なので、コアなオタク層にもきっちりと目配せを入れていきたいと思っています。*21

タカヒロは、自身が愛するものを直接的なパロディあるいは間接的なモチーフとして作品に落とし込んでくる。それは、例えば「黒髪ロング」の美少女であったり「仮面ライダー」に登場するキャラクターであったりする。彼はゲームを制作するにあたって、より多くの他者に購入されるべき商品であることを意識しながら、一人のオタク・美少女ゲームプレイヤーとして、自分が楽しく感じるものを作品に投入する。それは、シナリオライティングを自己表現の一環と捉える態度の表れである。

*22シナリオライターとは何ですか、タカヒロさん?
タ:は!? シナリオライターとは…やべぇ「自己表現の場」としか出てこねぇ。*23

自分が愛するものを積極的にゲーム制作に活かすというタカヒロの性質を踏まえ、作品を読解する助けとして彼の嗜好を紹介しよう。
まず、タカヒロの美少女に対する代表的な嗜好として、姉(実姉、義姉、あるいは年上の女性)、ツンデレや強気な性格、黒髪ロングやポニーテールといった髪色・髪型がある。内面的には男性に対して上位な女性を、外面的にはスタンダードなデザインの美少女を好むようだ。これらはそのままタカヒロ作品のキャラクターデザインに活かされる。*24
続いて、タカヒロが影響を受けた諸作品、諸作家について説明する。

――これまでに影響を受けた作品、作家、あるいはキャラクターはいらっしゃいますか?

タカヒロ 自分はアニメやマンガで育ってるんですよ。作品の傾向的にもビジュアルや声をよく使うんで、そこら辺がメインになるんですよね。だから昔の『ジョジョ』や『ドラゴンボール』がやっていた黄金期のジャンプと、自分が勝手に黄金期だと思ってるんですけど『らんま1/2』、『帯をギュッとね!』、『GS美神』、『うしおととら』がやっていた頃のサンデー、この2つですね。特にサンデーでのドタバタ系はかなり自分の根底にあると思います。時々レビューサイトとか見ると「タカヒロ作品はる〜みっく臭い」と言われるんですけど、意識はしてないけどやっぱり影響受けてるんでしょうね。
それ以外だと『アークザラッド2』とか『サガ フロンティア』とか『ファイナルファンタジーⅦ』とかキャラクターの個性を大事にしてたRPGが凄く好きで、敵だろうが脇役だろうが個性が立ってるというのは凄く重要なんだというのはそこから学びましたね。特に『FFⅦ』は神羅カンパニーのタークスとかキャラ立ってたんで。今でも人気あるんでやっぱり間違ってなかったんだなって。
あと作風とは違うんですけど黒い話好きなんで、太宰とかも好きだったりします。*25

タカヒロの趣味として一番に挙がるのが漫画である。*26上記の引用内で言及されているもの以外には、『少年ジャンプ』作品として尾田栄一郎の『ONE PIECE』を愛読し、冨樫義博の『ハンター×ハンター』もタカヒロ作品においてほぼ直接的に登場させている。引用文ではいわゆる「るーみっくわーるど」について意識していないとされているが、その後のインタビューにおいて『まじこい』はまさしく『らんま1/2』を志向して作られていたことや、*27るーみっくわーるど」から物語や世界観に影響を受けていることを本人が言及している。*28他に、西岸良平の『鎌倉ものがたり』も世界観に影響を与えたという。*29
漫画以外の趣味は、アニメ、ライトノベル歴史小説、特撮(平成仮面ライダーシリーズなど)、時代劇(必殺シリーズなど)、ゲーム(三国志系、格闘ゲーム美少女ゲームなど)と多岐にわたる。それぞれを直接・間接的に作品内に持ち込んでいるのは漫画と同様である。他に、雑誌『GAMEST』(新声社)でエンターテイメントを学び、文章においては田中ロミオの影響が大きいという。具体的な作品名としては『最果てのイマ』を挙げている。*30また、同じ美少女ゲームシナリオライターの中では、麻枝准丸戸史明、王雀孫がライバル・目標であると述べている。*31これらのライターとタカヒロとの相似・相違点を考察していくことは今後の課題としたい。

美少女ゲームに対する嗜好については以下を参照する。

――プライベートでも美少女ゲームはプレイしますか?
タカヒロ プライベートでも美少女ゲームはメチャクチャ遊びますね。自分自身もユーザーであることが企画者として大事だと思っているので。今は時間が切迫しているので控えてますけど……。最近だと、エロじゃないですけど『キミキス』ですか。さらに遡ると『Fate』ですかね。やっぱりあの作品は好きですから。あと『最果てのイマ』なんかも序盤の掛け合いが好きですね。

――傾向としてはどういった作品が多いですか?
タカヒロ キャラが立っていれば何でもやりますよ。さっき言った『Fate』なんかはいわゆる燃えゲーですし、『私立 アキハバラ学園』みたいな濃い系のも好きですし。ただ陵辱物はあんまりやらないですね。どっちかって言うとライト層の中で取っ替え引っ替えやってるっていう感じです。節操がないといえば節操ないですね。
るーす 『戦国ランス』は?
タカヒロ 『戦国ランス』はもちろんやりましたよ。やっぱり上手いですよね、あそこの人たちは。エロゲーとはかくありきというか。あ、だから『戦国ランス』ですね、最近やったのは。*32

タカヒロは、名前を挙げた『Fate/stay night』(TYPE-MOON、2004年)のセイバーや『戦国ランス』(アリスソフト、2006年)の上杉謙信といったヒロインが人気であることを鑑みて、『まじこい』では凛々しさをポイントとした「武士娘」をメインヒロインに据えている。このように、タカヒロは先行する作品を楽しみながら絶えず研究する熱心さと、それを取り込んで自身の作品に活かす力を持っている。
筆者が見るに、タカヒロサブカルチャーを中心に愛する一人のオタクでありながら、自身の嗜好を商品であるゲームへ投入する際のバランス感覚が非常に優れており、総体として優等生的な人物である。読者もまた、略歴と嗜好を確認することである程度タカヒロの人物像に迫ることができたのではないだろうか。

3.理論

この章では、筆者がどのような視座を持ってタカヒロ作品を語るのかを明らかにする。

3.1.キャラゲーとしてのタカヒロ作品

まず、本論ではタカヒロ作品をキャラゲーとして扱うことを確認しておこう。
この「キャラゲー」という呼称には、キャラクターしかセールスポイントがない商品であるという否定的な意味と、あるいは魅力に溢れたキャラクターを評価する肯定的な意味の二つが存在する。
本論では、「キャラゲー」を「キャラクターを基本単位として、彼らを魅力的に見せることに注力されたゲーム」という肯定的な意味で再定義して用いる。つまり、タカヒロキャラゲーの創作者として捉えるということだ。
私見では、タカヒロ作品はキャラゲーとしてWebや雑誌などで広く認知されている。タカヒロ自身もキャラクターを基本単位として物語を作っていることを雑誌等で明らかにしており、キャラゲーの創作者であることが理解されている。*33
わざわざこのようなことを確認したのは、次節でタカヒロのシナリオライティングを適切に分類するためである。

3.2.シナリオライティングの三分類

第一章では、タカヒロが行うゲーム制作作業を広義のシナリオライティングとした。本章では、広義のシナリオライティングという創作行為をいくつかの要素に分けて考えたい。そのために、まずは大塚英志が『キャラクター小説の作り方』(講談社現代新書、2003年)で提唱した「キャラクター小説」について触れておこう。
『キャラクター小説の作り方』はいわゆるライトノベルの作家志望者に向けて書かれた本である。大塚はライトノベルの特性を「キャラクター」に見出し、「私」を描く「私小説」に比して「キャラクター」を描くライトノベルやその周辺の小説を「キャラクター小説」と呼んだ。キャラクター小説では、その名の通りキャラクターを中心として物語が作られていく。つまり、キャラゲーとキャラクター小説はキャラクターを基本単位として創作される点において似通っている。*34
キャラゲーであるタカヒロ作品のシナリオライティングは、その創作技法においてキャラクター小説と共通する部分があるのではないか。そのような考えから、大塚が前掲書で示したテーブルトークRPGの役割分担に基づく創作作業の分類を本論にも導入したい。具体的には、以下のようなものである。
大塚はキャラクター小説の創作技法として、テーブルトークRPGの方法論が有効であると言う。*35

[…]キャラクター小説家志願のあなたたちにとって大切なのは「ゲームデザイナー」(世界観を作る人)、「ゲームマスター」(物語を作り管理する人)、「プレイヤー」(キャラクターとして実際に物語を演じる人)の三つの役割分担は、そのまま小説を含めた物語作りの技術の三つの立場に分類されうる、ということです。*36

この三分類はゲーム制作における企画段階の作業(世界観やキャラクター設定)も含んでいる点で、企画とシナリオを兼任してゲームを制作してきたタカヒロの創作行為を分析するのに都合がよい。よって、本論ではこの分類に基づき、広義のシナリオライティングをワールド(世界観)作成、ストーリー(物語≒狭義のシナリオ≒テキスト)作成、キャラクター(人物)作成、という三つの要素からなる創作行為と再定義する。
では、キャラゲーにおいてワールド・ストーリー・キャラクターの三要素はどういった関係を持つのだろうか。筆者は、ワールドにおけるキャラクターの活動がストーリーとして生成されるという理解をしている。言わば、ストーリーとはワールド内のキャラクター達が取るコミュニケーションの副産物である。*37
キャラゲーにおいてはキャラクターの存在がワールドとストーリーに先行するけれども、キャラクターが具体的に魅力を発揮する姿はワールドにおけるストーリーを通すことでしか観察されない。このことから、本論ではタカヒロ作品のワールドとストーリーについて、キャラクターを魅力的に映し出すものとしての機能を検討する。
次節からは、タカヒロが各要素をどのように創作し、「明るく楽しい」「キャラゲー」を制作していったのか、作品論で問われる論点を説明していく。

3.3.ワールド
3.3.1.タカヒロワールド/感覚共有、「明るく楽しい」世界観

初めに、タカヒロ作品における舞台設定、いわゆるタカヒロワールドについて解説する。『姉しよ』から『まじこい』まで、タカヒロワールドは全て時代を現代、場所を日本国神奈川県内の一都市をモチーフとした街に設定している。物語の舞台となる土地を神奈川にしている理由として、タカヒロは(1)神奈川が海、山、古都、都会といった複数の特徴を持つこと、(2)彼自身が神奈川在住であり、知っている街を舞台にするとキャラクターが動く様子が想像しやすいことを挙げている。*38作中の背景画像の多くが現実に存在する神奈川の風景を元にして作られており、タカヒロ作品はいわゆる「ご当地もの」としての側面も持っている。
タカヒロワールドは現実と地続きになった時空間であり、プレイヤーと同時代的・同社会的な感覚で構成されていると言える。プレイヤーは、タカヒロ作品に登場する事物が現実のそれと酷似していることを確認するだろう。例えば、『ハンター×ハンター』をもじった漫画が登場したり、登場人物達が「生活給付金」を支給されるというエピソードがあったりすることによって。これは、タカヒロが影響を受けたと語る高橋留美子作品の世界観「るーみっくわーるど」とも近しい。高橋の「うる星やつら」には、日本SFやアニメ、特撮で育ってきた世代の感覚が織り込まれていた。*39同様に、タカヒロ作品においても第二章で挙げたような漫画、アニメ、ゲーム等で育った世代感覚が如実に表れている。*40
ここで留意しておきたいのは、タカヒロワールドが現実と地続きであり、その世界における事物が我々が生きる世界のそれと酷似していても、決して同一ではないということである。大塚が言うように、世界観とは世界の観方であり、同時に「ズレた日常」であるけれども、*41タカヒロワールドはエンターテイメントを志向する視点によって作られ、そのために現実から「ズレ」ている。
タカヒロ作品は「明るく楽しい」ものを目指しているから、その世界観もプレイヤー(主にオタク)から見て面白おかしいものにならざるを得ない。別の言い方をすれば、タカヒロワールドは偽史的な想像力で「明るく楽しい」世界を成り立たせているということだ。現代の地方都市をモチーフとした架空都市という時空間にオタクネタや時事ネタというデータベースを持ち込んで世界観を形作るということは、非常に偽史的である。タカヒロワールドの舞台となる都市では、建造物の位置関係などが現実のそれとは食い違っている。また、タカヒロは現実に起こった時事の中からネタとして面白おかしいものを恣意的にピックアップして時事ネタとして用いている。そういう意味で、タカヒロワールドは現実と繋がりを持ちながらも偽物として用意された世界である。
このようにして成立するタカヒロワールドは、プレイヤーに対してどう機能しているだろうか。一つには、プレイヤーと作品内のキャラクターの間における感覚共有がスムーズに行われることがある。神奈川県に行けばゲーム内のキャラクターに会えるのではないか、というのは『まじこい』をプレイしていた際の筆者の錯覚だ。これを、現実とゲームとを混同したオタクの妄想だと指摘することは容易い。しかし、それほどまでにタカヒロ作品のキャラクター達が生きる世界は我々が生きる世界に近く存在するとは言えないか。その距離の近さが、キャラゲーとしてプレイヤーとキャラクターの感覚を共有させる上で適切に働いていると筆者は考える。
タカヒロワールドが持つもう一つの機能は、面白おかしい世界観として「明るく楽しい」エンターテイメントを提供しているということである。現実には「暗く悲しい」ことも「明るく楽しい」ことと同じくらい起こっている。まるで「明るく楽しい」ことしか起こっていないかのようにネタばかりで記述された世界は確かに偽史的であるけれども、「明るく楽しい」ゲームを目指して作られているのであれば、それは一面的に正しい、というのが筆者の見解だ。時事ネタは、「暗く悲しい」ことを単に無視するのではなく、それさえもネタにすることで「明るく楽しい」ものとして消化できることが理想であろう。タカヒロがこれまでの作品で用いてきた時事ネタが必ずしもそのような転化を成してきたとは言わないけれども、そのような笑いの効用を意識して今後のタカヒロワールドが記述されることを、筆者は望む。
以上が、タカヒロワールドの機能である。現実をベースとしながら、さらに現実の面白おかしい部分を抽出して構成されることによって、タカヒロワールドはキャラゲーにおいて重要であるプレイヤーとキャラクターとの感覚共有、そして「明るく楽しい」世界観を獲得した。

3.3.2.コミュニティ/アイデンティファイ、セーフティネット

前節では、タカヒロワールドの構成要件とその機能について書いた。本節では、さらにタカヒロワールドの中で要となるコミュニティについて考える。ここで言うコミュニティとは、タカヒロワールド内で主人公を始めとするキャラクター達が構成・所属する集団、およびその場所である。タカヒロ作品では、キャラクター達が様々なコミュニティ内でコミュニケーションを取ることによって多面的な姿を見せる。所属するコミュニティの数だけキャラクターの人格が存在すると言ってよい。コミュニティの機能の一つは、キャラクターをアイデンティファイすることである。
タカヒロ作品は、作中でメインとなるコミュニティの種類によって二つの系統に大別できる。それがホームコメディと学園コメディである。ホームコメディに該当するのは『姉しよ』、『姉しよ2』、『きみある』であり、ここでメインとなるコミュニティは柊家や久遠寺家といった、主人公達が住む「家」である。対して、学園コメディに該当するのが『つよきす』、『まじこい』であり、ここでメインとなるコミュニティは竜鳴館学園や川神学園といった、主人公達が通う「学園」である。また、学園コメディには主人公達が主に幼なじみを中心として結成する「ファミリー」という疑似家族的コミュニティがあり、こちらも作中では重要である。特に『つよきす』以降、制作レベルでヒロインと同等にしっかりとデザインされた男性キャラクターがメインコミュニティ内に配置されるようになっている。
コミュニティの中でも、このメインコミュニティは特別な機能を持つ。それは、コミュニティの構成要員に「明るく楽しい」を約束する、セーフティネットという役割である。セーフティネットは、日常シーンにおける安全とイベントシーンにおける安全を守っている。日常シーンとイベントシーンについては、立ち絵で展開されるシーンと一枚絵(CG)で展開されるシーン、程度に理解してもらえればよい。*42
タカヒロ作品の日常シーンは、基本的にメインコミュニティの中でキャラクター達がドタバタ劇を繰り広げるという形で展開する。その際に、どれだけキャラクター達が荒唐無稽な行動を取っても「明るく楽しい」状態を維持するのがセーフティネットとしてのコミュニティの機能だ。ここでは、不快感の排除(人が死なないようにするなど)を行う程度の機能と考えてよい。いわば作劇上の「お約束」を守るものである。本論ではこの機能について深くは取り上げない。
タカヒロ作品のイベントシーンも、基本的にメインコミュニティの中でキャラクター同士がコミュニケーションを取って展開される。そこでは特定のキャラクターが抱える問題がクローズアップされ、その問題解決を中心にして話が進む。この問題解決における安全とは、キャラクター達に悩みや失敗、挫折といった問題からの再起可能性を与えることだ。家族や仲間、教師達は問題を抱えた者を扶助・保護し、問題を抱えた者はコミュニティの中で再起へ向けた活力を得て、「明るく楽しい」日常へと回帰していく。その再起可能性はいわゆるモラトリアムではないか、セーフティネット機能には問題があるのではないか、といった疑問については次章の作品論で応答する。
タカヒロ作品は段々とそのコミュニティを巨大化・多層化させていき、『まじこい』でコミュニティの在り方自体をテーマに盛り込むことで一つの達成を見せている。そのような観点から、本節ではコミュニティがキャラゲーの核たるキャラクターをアイデンティファイし、さらにメインコミュニティがキャラクターを守り「明るく楽しい」を保証するセーフティネットとして機能すると指摘した。最後に、コミュニティはキャラクターのコミュニケーションによって支えられていることを記しておく。このことは次節で詳述しよう。

3.4.ストーリー
3.4.1.コミュニケーション/他者との関係性

前述した通り、キャラクターを基本単位とするキャラゲーにおいて、ストーリーとはワールド内でキャラクターがコミュニケーションした結果として生成されるものである。タカヒロ作品のシナリオは、キャラクター同士のコミュニケーション(掛け合い)から成るエピソードの集合だと言える。
前節で触れたコミュニティも、キャラクター間のコミュニケーションによって存続する。コミュニケーションがなければ、家庭も学校も容易く崩壊するだろう。
キャラクター達は常にコミュニケーションを取り続け、自分達の姿を他者との関係性によって確認・再認する。プレイヤーもそのようにしてキャラクターを捉えていることだろう。「三姉妹の長女」、「クラスの委員長」といった役割は、設定として最初からそのキャラクターに備えられたものである。しかし、その具体的なイメージを形成して更新し続けるのは、コミュニケーションによって描かれる他者との関係性だ。
コミュニケーションの機能は、コミュニティの形成であり、突き詰めればキャラクターを他者との関係性からアイデンティファイすることである。この機能は、ストーリー内でキャラクターが抱える問題を解決するエピソード(イベントシーン)において表面化する。特に『きみある』や『まじこい』では、この機能についてかなり自覚的なストーリーが展開される。詳しくは次章で説明する。

3.4.2.テキスト/掛け合い

キャラクター間のコミュニケーションの基本単位はテキスト、つまり台詞であると考える。私見では、タカヒロのシナリオはキャラクター間で繰り広げられる掛け合い部分のテキスト(台詞)部分が最も高く評価されている。そして、掛け合いの面白さを強く支えるのがボイスの存在である。*43美少女ゲームにおけるフルボイス仕様が一般的になって久しいが、タカヒロはキャラクター作成の初期段階からそのキャラクターを演じる声優を考え、演者の特性に合わせたテキストを書いている。最も直接的には、声優が過去に演じたアニメやゲーム作品のキャラクターをパロディのネタとして使う。
他に、タカヒロのボイスに対する意識が掛け合いのテキストに表れている例として括弧の使い方がある。会話のテンポを高めるために、本来地の文として説明すべき事項を括弧でくくり、キャラクターの台詞と共に表示するという手法がよく使われる。*44
このように、ボイスへの配慮が見られるタカヒロの掛け合いテキストにも一つの弱点がある。タカヒロ作品においては主人公にボイスが付いていないために、主人公が参加した掛け合いでは、そのモノローグ部分だけ声が抜けてしまうということだ。この抜けはゲームをプレイしていて不自然に感じられるだろう。筆者は主人公にもボイスを付けて構わないと思うけれども、タカヒロはここにおいて美少女ゲームの「お約束」を守り続けている。*45
タカヒロが書くテキストの最大の機能は、キャラクター同士の掛け合いによってコメディを描き、ユーザーに楽しさを提供するということだろう。本論の関心からは離れているため、ここで具体的にテキストからその笑いを分析することはしない。これも今後の課題とする。

3.4.3.ルート/選択の自由

前節ではエピソードの細部としてテキストを論じた。本節ではエピソードの集合としてのルート、ルートの集合としてのマルチエンディングという観点からストーリーを見つめてみよう。
タカヒロは、エピソード単位でキャラクターを魅力的に描くのは巧いけれども、エピソードを配置し、一つのルートとしてストーリーを構築する作業はそれほど得意ではない、というのが私見である。見せ場自体の出来は良いのだが、その見せ場へ至る展開が強引な場合がある。伏線について言うなら、例えば『つよきす』ではルート間の相互補完という形で各キャラクターが抱える問題を示すテキストが隠されていた。これに対して、『まじこい』ではそのような形の伏線も残しつつ少年漫画的な「引き」が多用され、隠された事実は明確な謎としてプレイヤーに提示されることが多い。
全てのタカヒロ作品は、ルートの集合としてのマルチエンディング形式を取っている。マルチエンディングの美少女ゲームは構造的に選択の問題を孕む。ゲームによっては、主人公が一つのルート(ヒロイン)を選ぶ際に、プレイヤーは選ばなかったルートに対する意識を持ち、それが想像力を伴って一種の後ろめたさや感傷を作り出す。
しかし、タカヒロ作品はそのような選択の問題をかなりの程度クリアし、各ルートへの肯定感にあふれたマルチエンディングを形成している。例えば、あるヒロインを選べば他のヒロインが不幸になる、といった問題は発生しない。正確に言えば、主人公がどのルートを選んでも(その結果として不幸になっても)キャラクター達はそのルートなりのやり方で幸福を目指し前向きに生きていく。また、特定のヒロインのルートを正史としないこともタカヒロ作品の原則である。こうした理由から、プレイヤーがどのルートを選んでも後ろめたさは発生せず、「明るく楽しい」雰囲気を維持できている。
どのルートを選んでもキャラクター達は皆幸せに向かっていくのだから、どのルートも正しい。全ての選択肢に正しさが保障されているからこそ、その選択は自由なものとなる。選択が自由であるからこそ、その選択はプレイヤーにとって主体的なものにならざるを得ない。そして、主体的に行われるからこそ、選ぶことの価値や意味も生まれてくる。*46筆者はタカヒロ作品のルートとマルチエンディングをこのように考えている。

3.5.キャラクター
3.5.1.デザイン/ストーリーからの自立

シナリオライターキャラゲーにおいて「明るく楽しい」を実現するために、キャラクターが幸せに生きているストーリーを作りたいとする。ここで、彼が取りうる方策は二つあるだろう。
一つは、「その後彼らは幸せに暮らし」たという「結果」をシナリオとして直接的に記述することだ。これは率直に効果を発揮するけれども、一歩間違えれば自然さや説得力に欠けたシナリオとなってしまうこともある。そのような瑕疵は、ストーリーによってキャラクター(の人生)を強引に描こうとした結果、キャラゲーの構造に反するために起こる。これまでに、キャラクターの姿はストーリーを通して確認されると述べてきた。だが、それはキャラクターがストーリーによって生成されることを意味しない。本章で説明してきたように、キャラクターがストーリーに先行するというのが筆者の認識である。
では、どうすればいいのだろう。もう一つの方法は、最初から「その後幸せに暮らせ」るような性質を持ったキャラクターをデザインするというものだ。つまり、「原因」を作ってキャラクターに与えることである。「前向きな性格」という「原因」を与えられたキャラクターは、どのようなストーリーにおいても「前向き」に生きていくことだろう。この「だろう」という想像力の喚起によって、キャラクターデザイナーとプレイヤーは共犯的にキャラクターの人生をストーリーとして消費する。ストーリーによって幸せになるキャラクターではなく、その幸せな人生がストーリーになるようなキャラクターを作る。タカヒロが成し遂げてきたキャラクターデザインとは、そのような行為である。

3.5.2.主人公と群像劇/主体と主観

ここで、ADV形式の美少女ゲームにおいて、プレイヤーと主観・視点を共有するプレイヤーキャラクター(PC)とそれ以外のキャラクター(NPC)が存在することを確認しておく。PCは視点人物などと言われる。タカヒロ作品においては、主人公が観測していない場面も主に会話文として記述される。そこでは台詞によって主人公以外のキャラクターの内面が表される。こうして内面が描写されるキャラクターが増えていくと、作品は群像劇的な性格を持つようになる。
本節で示しておきたいのは、主体と主観の区別である。ストーリーにおいて誰かの問題を解決する積極的主体となるキャラクターを本論では「主体的キャラクター」と呼ぼう。また、主観(内面)が描写され他者へ視線を投げかける者として在るキャラクターを本論では「主観的キャラクター」と呼ぼう。多くの場合、主体的キャラクターと主観的キャラクターは主人公として一致する。しかし、先に説明したような群像劇化が行われると、ストーリーの中で特定の問題に対する主体と主観が一致しないことがある。
タカヒロ作品は時代の流れと共により群像劇的な方向へシフトしている。特に『つよきす』と『まじこい』はそのような群像劇を志向して制作されており、筆者はこれをキャラゲーの方向性の一つとして肯定的に捉えている。その理由は、ここで示したような主観と主体の区別に基づくものである。これについては最終章で詳述しよう。

3.5.3.バイタリティ/祝福

タカヒロが生み出してきたキャラクター達は数多く、老若男女様々な人間が入り乱れており、表面的には共通する性質を抜き出すことは難しい。しかし、その内面に目を向けた結果、筆者が多くのキャラクターに普遍的に備わっていると考える特質が「バイタリティ」である。生命力、前向きさ、肯定力、生き汚さ*47などとも言えるだろう。
繰り返すが、タカヒロ作品のキャラクター達が「明るく楽しく」生きていける理由は、タカヒロが彼らの人生をそのように記述したからではなく、彼らに「明るく楽しく」生きていくためのバイタリティを与えたからだ。彼らは、幸せの芽を持たされ、祝福されて生まれてきたのである。

3.5.4.サガ/不変性

タカヒロ作品には、バイタリティという普遍的な性質とは別に、個別に生まれ持ったサガ(性質)を備えるキャラクターが存在する。例えば、『まじこい』のヒロイン川神百代は「戦闘狂(バトルマニア)」というサガを持っていた。サガは、いわゆる萌え属性とも隣接するものだと筆者は考える。タカヒロ作品のメインヒロインは「ヒロイン全員○○」としてデザインされる。その空白には姉、強気、主従、武士娘といった属性が入る。
タカヒロは、このようにキャラクターに与えたサガや属性を不変のものとして捉えている。たとえ他者との関係性が変化したり(誰かと恋愛関係になったり)、成長したとしてもその性質を変えることはできず、各人が一生向き合っていくべきものとしてこれらは描かれている。
同様に、キャラクター達が抱えて生きていくものとして親の存在がある。タカヒロ作品に登場する(主人公達から見て)親世代の人間は、ろくでもない者として示されることが多い。例えば、『つよきす』における伊達スバルの父、『きみある』における上杉練の父、『まじこい』における椎名京の母などである。そして、親が存在すること、あるいは存在しないことは所与のもの(どうしようもなく変更不可能なもの)として作品内で認識されている。
以上のような不変性への態度は、タカヒロ作品のストーリーにおいて形を変えて繰り返し強調される。タカヒロは、キャラクターの不変的な部分と可変的な部分のバランスを取ることに長けている。詳しくは各作品論で明らかにしよう。

3.6.総括

本章の説明をまとめると以下のようになる。
キャラゲーとしてのタカヒロ作品とそのシナリオライティングを、ワールド・ストーリー・キャラクターの三要素から考えた。
タカヒロワールドはプレイヤーと感覚を共有しながら「明るく楽しい」世界観を作り、コミュニティのセーフティネット機能が「明るく楽しい」を保証する。
ストーリーはコミュニティ内における掛け合いというコミュニケーションから生成される。掛け合いは最も表面的な「明るく楽しい」ものであり、コミュニケーションはキャラクターをアイデンティファイする。また、ルート選択は肯定感に溢れた「明るく楽しい」マルチエンディングを作っている。
キャラクターにはバイタリティと不変性が備わっている。バイタリティは「明るく楽しい」ストーリーを描くための原動力である。また、キャラクターの類型として主体的キャラクターと主観的キャラクターを定義した。
三要素がそれぞれに「明るく楽しい」ゲームを作ることに貢献している構図が分かった。では、本章で獲得した視座をもって個別のタカヒロ作品を論じていこう。

続き:タカヒロ論「憧れのあとさき」Web版(下) - 詩になるもの

*1:本書のタイトルは「恋愛ゲーム」という語を用いているが、本論ではこの呼称で統一する。

*2:2010年11月

*3:例えば、『ASTATINE:微妙な距離感。』http://blog.livedoor.jp/april_29/archives/50410458.html

*4:雑誌、書籍、Web、その他の場におけるタカヒロの言葉は補助的な資料として用いる。

*5:念のために書いておくと、筆者はゲームの企画段階から参加していない、いわゆるテキストライターについての論考がナンセンスだとは思わない。

*6:みなとそふと Official Homepage ご案内』http://www.minatosoft.com/guide.html

*7:本来ならばそこからさらに先へ進み、この章においてタカヒロ美少女ゲーム業界/批評界の中で通時的・共時的に位置づける作業、すなわちマッピングが必要だろう。だが、筆者はその美少女ゲーム経験が浅いために、未だ確固たる歴史観を持たない。先行する美少女ゲーム評論・批評についても十全にその論理や通史を学んでいるとは言い難い。タカヒロに対して適切なマッピングを行うことは今後の課題とする。

*8:梅棹忠夫「文明の生態史観」(『文明の生態史観』所収、中公文庫、1974年、初出1957年、104ページ)

*9:以下、『少女人形』と略記。

*10:以下、『悪戯4』と略記。

*11:以下、『姉しよ』と略記。

*12:以下、『姉しよ2』と略記。

*13:以下、『つよきすMH』と略記。

*14:以下、『きみある』と略記。

*15:以下、『きみあるCS』と略記。

*16:以下、『まじこい』と略記。

*17:以下、『まじこいS』と略記。

*18:以下、『漂流記』と略記。

*19:作画は田代哲也。以下、『アカメ』と略記。

*20:黒を愛する 仕事一覧http://www.takahiro.ms/work.htm

*21:坂上秋成司会・構成、「【鼎談】王雀孫×桜井光×タカヒロ美少女ゲームの突破口――新たなる『楽園』を探して」(『PLANETS vol.7』所収、第二次惑星開発委員会、2010年)

*22:るーすぼーい(シナリオライター)を指す。以降の引用における「るーす」も同じ。

*23:シナリオライター座談会PART2」(『BugBug』2009年10月号所収、サン出版、2009年)

*24:もちろん、作業段階では原画家との連携によってデザインが進む。例えば、『まじこい』においては外見デザインをほとんど原画家wagiに任せたキャラクターも多く存在する。

*25:『新世紀シナリオライター鼎談!試し読み版 第二回』http://www.foxcomic.com/item/minato/sample_02.html

*26:黒を愛する プロフィールhttp://www.takahiro.ms/pro.htm

*27:コンプティーク』2009年8月号(角川書店、2009年)

*28:坂上秋成司会・構成、「【鼎談】王雀孫×桜井光×タカヒロ美少女ゲームの突破口――新たなる『楽園』を探して」(『PLANETS vol.7』所収、第二次惑星開発委員会、2010年)

*29:『まじこいマテリアルブック』(みなとそふと、2009年)

*30:坂上秋成司会・構成、「【鼎談】王雀孫×桜井光×タカヒロ美少女ゲームの突破口――新たなる『楽園』を探して」(『PLANETS vol.7』所収、第二次惑星開発委員会、2010年)

*31:シナリオライター座談会PART2」(『BugBug』2009年10月号所収、サン出版、2009年)

*32:『新世紀シナリオライター鼎談!試し読み版 第三回』http://www.foxcomic.com/item/minato/sample_03.html

*33:タカヒロ作品が現在の美少女ゲームユーザーにキャラゲーとして広く受け入れられている一例としては、Web掲示bbspinkの『エロゲネタ&業界板』で毎年開催される『2chベストエロゲー』の2009年投票結果がある。その内容は、『まじこい』がキャラクターをもって評価されていることを示唆するものであった。『2009年ベストエロゲー投票』http://mas.bne.jp/anko/besterog/2009/

*34:「キャラクター小説」という語は、出版関係者が否定的に使用していたものを大塚が肯定的に再定義したものである。「キャラゲー」という語が否定と肯定両方の意味を持つことに相似している。

*35:現実に、ライトノベルにはテーブルトークRPGのリプレイを源流とする作品群が存在し、大塚はそのような方法論によって書かれた小説を「ゲームのような小説」と呼ぶ。

*36:『キャラクター小説の作り方』(187ページ)

*37:この理解は、まさに大塚が言うところの「ゲームのような小説」と同じものである(キャラゲーはゲームなのだから当然だ)し、東浩紀が言うところの「データベース消費」とも近いものでもある。データベース消費では、一つの物語を、特定の世界観におけるキャラクター達のデータベース(「大きな非物語」)が無数に紡ぎ出す「小さな物語」の一つとして認識する。詳しくは『動物化するポストモダン』(講談社現代新書、2001)、『ゲーム的リアリズムの誕生』(講談社現代新書、2006年)を参照していただきたい。

*38:テックジャイアン』2009年9月号(エンターブレイン、2009年)

*39:ササキバラ・ゴウ『<美少女>の現代史』(講談社現代新書、2004年)

*40:ただし、タカヒロワールドにおいては漫画、アニメ、ゲーム等に見られる超自然的(スーパーナチュラル)な奇跡は発生しないという原則も記しておこう。ここにおいても、タカヒロワールドは現実寄りの世界観である。

*41:『キャラクター小説の作り方』(218ページ以降)

*42:思考の補助線としては、佐藤心が「すべての生を祝福する『AIR』」(『美少女ゲームの臨界点』所収、波状言論、2004年、初出2003年)で言うギャルゲー(本論における美少女ゲーム)の三層構造がわかりやすいかもしれない。佐藤はギャルゲーの構造を(1)キャラクターの層、(2)コミュニケーションの層、(3)トラウマの層、という三つの層から考えられるとしている。後述するようにタカヒロ作品においてはトラウマという呼び方はふさわしくないと思うので、「問題解決の層」とでも読み替えた方が良いかもしれない。

*43:傍証として、『つよきす』発売後にとあるユーザーがWeb上で非公式に発表した『フカフィレプレイヤー』というソフトウェアの存在を指摘したい。これは、『つよきす』作中のボイス(台詞)を自由に抽出、配置していわゆる音声MADが作成できるツールである。ユーザーがボイスに対して強い興味を抱いていたことを示している。また、『つよきす』のファンディスク『みにきす』の宣伝としてきゃんでぃそふとが作成したCMムービーも、『つよきす』の画像・音声素材を組み合わせたMAD的なものであった。

*44:筆者はこの手法を「カッコメソッド」と呼び、過去に言及したことがある。『タカヒロさんのカッコメソッドについて - まじこい4ever』http://majikoi4ever.g.hatena.ne.jp/highcampus/20100410/1270840949 また、同様の手法を他のライターが使っていることも確認している。例えば、『恋愛ゲームシナリオライタ論集 30人30説+』では、lucyが荒川工論の中でこれに触れている。

*45:『きみある』や『まじこい』のドラマCDでは、人気・実力が高い声優を主人公に配役していることから、決してタカヒロが主人公を軽視しているわけではないと分かる。主人公のボイス抜け問題が解決されているために、タカヒロがシナリオを担当するドラマCDシリーズの掛け合いはゲームより高い評価を受けることもある。

*46:いわゆるダミー選択肢にも同様の効果がある。どの選択肢を選んでもルート内の展開に影響がないのであれば、その選択結果は完全にプレイヤーの主体性を反映したものになるだろう。その積み重ねが、各プレイヤー固有の(もちろん有限個のパターンでしかないけれど)ストーリーとその価値を作っていく。

*47:筆者が知る限り、「生き汚い」という言葉を最初に用いたのは奈須きのこである。「おまえは人々を生き汚いと言うが、おまえ本人はそうやって生きる事ができまい。醜いと、無価値だと知りつつもそれを容認して生きていく事さえできない。」奈須きのこ空の境界 下』(講談社ノベルス、2004年、初出1999年、25ページ)

タカヒロ論Web版の公開にあたって

そんなわけで。2010年にサークルtheoriaから頒布された「恋愛ゲームシナリオライタ論集 30人×30説+」「恋愛ゲームシナリオライタ論集2 +10人×10説」がめでたく完売した。それに伴い、各論者が収録原稿をWeb上で一般公開する運びとなった。
『恋愛ゲームシナリオライタ論集 30人×30説+』掲載原稿リンク集 - then-d’s theoria blog ver.
『恋愛ゲームシナリオライタ論集2 +10人×10説』掲載原稿リンク集 - then-d’s theoria blog ver.
当ブログでは「恋愛ゲームシナリオライタ論集2 +10人×10説」に寄稿したタカヒロ論「憧れのあとさき」を公開する。本論を再び世に出すことを許可していただいたthen-d氏に感謝したい。

諸注意

本論は2010年の冬、コミックマーケットC79に合わせて執筆された。そのため、現在からすると違和感を受ける部分があるかもしれない。
また、書籍頒布後に発見した誤字脱字は修正し、一部の文章は改稿している。改稿表は別エントリにまとめておいたので、書籍版の読者の方は参考にされたし。
最後に、本論は字数にして約4万を数えるため、そのまま載せようとしてもはてなダイアリーの字数制限に引っかかってしまう(全角文字で1日あたり約3万2500字が上限)。そこで本文を分割して2日に渡って公開することとした。さらに、2日目には書籍版のあとがき、前述の改稿表、Web版のあとがきを後記として掲載する。

目次

第一章から第三章を7月30日のエントリで、第四章と第五章を7月31日のエントリで公開する。

「憧れのあとさき」

    1. 本論の目的
    2. 本論の構成
  1. プロフィール
    1. 略歴
    2. 嗜好
  2. 理論
    1. キャラゲーとしてのタカヒロ作品
    2. シナリオライティングの三分類
    3. ワールド
      1. タカヒロワールド/感覚共有、「明るく楽しい」世界観
      2. コミュニティ/アイデンティファイ、セーフティネット
    4. ストーリー
      1. コミュニケーション/他者との関係性
      2. テキスト/掛け合い
      3. ルート/選択の自由
    5. キャラクター
      1. デザイン/ストーリーからの自立
      2. 主人公と群像劇
      3. バイタリティ/祝福
      4. サガ/不変性
    6. 総括
  3. 作品論
    1. 姉、ちゃんとしようよっ!
      1. 個性的な姉達
      2. 柊家におけるコミュニケーション
      3. 姉属性の不変性
    2. 姉、ちゃんとしようよっ!2
      1. 『姉しよ』からの継承と発展
      2. 歩笑と空也
      3. 姉属性で統合される柊家と犬神家
    3. つよきす
      1. 学園コメディの原型
      2. 自立するキャラクター
    4. 君が主で執事が俺で
      1. 家族の再構成
      2. 他者からの感化、イメージの更新
    5. 真剣で私に恋しなさい!
      1. 「川神」というセーフティネット
      2. 川神一子は挫けない
      3. これはこれで
      4. 主人公とヒロイン
    1. 憧れ
    2. プレイヤー、キャラクター、シナリオライター