十二人の怒れる男 感想

 はい、そんなわけで。

 裁判員制度も認知だけは広くされてきた今日この頃ですが、まだまだ納得いく施行ができるとは言えなさそうです。そこで、民間人が裁判に関わる上での問題を、陪審員制度が昔からあるアメリカでの場合を参考にして考えてみてはどうでしょう。ということで、今回は映画「十二人の怒れる男」の感想を書いてみようと思います。

 この映画は、ある殺人事件について、12人の陪審員が意見を述べ合い、一つの結論に到達するという、密室劇です。100分ほどの尺のうち、ほとんどを一室での討論で消費しています。このあたりはWikipediaにも載ってるので参照してください。

 十二人の怒れる男 - Wikipedia

 この作品を通して一つ感じたことは、陪審員達が考えた過程、そして最終的に出した結論に「推定無罪」の原則がしっかり働いていることです。

 最初は事件の容疑者に不利と思われる証拠や証言が多数あり、12人のうち11人が有罪と決めつけていました。そこから、1人が証拠や証言のおかしなところを指摘していくわけです。

 ただ、そこでは「無罪である証拠」を出す必要はないんですね。検察側が挙げた証拠や証言について、「疑いの余地がある」ということだけを言えれば、疑わしきは罰せずという推定無罪の原則により、無罪と結論づけられるんです。このあたり、日本の裁判員制度でもしっかり活かしてほしいものです。

 もう一つ思ったのは、陪審員に選ばれる人間へのフィルタリングの必要性です。作中の12人のうち、最後まで有罪を唱える人が2人いました。一人は人種差別的な思想を持つ人間でした。そしてもう一人は、自分が持つ家族関係のトラウマから、歪んだ考えしかできない人間でした。

 日本の裁判員制度でも、法律関係の職に就いている者は裁判員にはなれない、等のフィルタリングは存在します。しかし、思想的なことは本人が黙っていればチェックしようがありません。

 劇中では上記の2人はあからさまにそういうタイプの人間だとわかったし、反省もしてくれたようなので良かったです。けれども、論理的な説明をしていながら心の中では邪悪な思想を持った人間が意見誘導を行った場合は、危険だと思います。何を持って邪悪というか、事前にテストしようがない、などなど、対策のしようもないんですけどね。

 話を映画内容に戻します。僕が一番良いと思った場面はラストシーンです。2人の陪審員が裁判所を出たところでお互いの名前を教え、別れて去っていくというだけの場面です。しかし、それまで密室の場面ばかりだったので、裁判所の外に出ただけで非常に開放感を受けるんですよ。天気も、審議中は雨だったのに、裁判所を出ると晴れていて、それもこの最後の場面に心地よい爽やかさを付加していると思います。

 全ての審議がこの作品のように爽快に終わるとは限りません。しかし、自分がもし裁判員になったときも、こんな風に気持ちよく裁判所を後にしたいなあ、と思います。

 「十二人の怒れる男」は50年ほど前の映画ですが、その面白さ、訴える内容は現在も色あせることはありません。この映画のパロディとして、三谷幸喜さんが作った「12人の優しい日本人」も非常に面白いので、お勧めします。

 十二人の怒れる男、密室に充満する緊張と怒りが、詩になるもの。