社会の体力

 ひとしきりあって。以前、詩になるもので健全な社会という記事を書いたことがある。そのときは上手く書けなかったので、ここでは人体を社会とみなすという比喩を用いて説明したい。

 普通どんなに清浄にしていても、空気中には大量のホコリや病原菌があり、人体は日々それらを内部に取り入れている。それでも病気にならないのは、防衛機能が病原菌をしっかり減殺していることによる。これは正常な体力があるからこそできることであり、体力を失うと防衛の機能が下がり、病原菌が病気を引き起こす。

 人体を社会に置き換えると、ホコリや病原菌は社会におけるあらゆる害悪、違法行為や犯罪、一般に悪事と言われる行為となる。体力がある社会では、悪事が起こっても防衛機能である法や官憲がなんとかしてくれる。社会全体が異常な状態に陥るようなことは滅多にはない。
 しかしそれは、法や官憲がある程度発達して有能であるおかげであるから、という理由だけでは成り立たない。社会に体力があることが前提条件として必要である。体力がない社会では、悪事が社会全体に異常を引き起こし、社会の存在自体が危ぶまれることにもなる。

 この比喩から僕が注意したいのは、人体には体力があってもなくても常に病原菌が入り込んでいるということだ。だから、病気の対策を考えるとき、病原菌が人体にいること自体が問題なのではない。病原菌に対処するだけの体力が人体にないことが問題なのだ。

 昨今の社会における悪事に対する批判的な反応を見ていると、どうも病原菌を人体から追放すべきといった趣旨の、一見素晴らしい文章がよく目に止まる。しかし、社会の体力が落ちつつあることを示唆していなければ何らの有効性も持つまい、と僕は感じている。

 病気の対処法にもいろいろある。病原菌を殺さなければ、といって殺菌薬を投薬するのは簡単なのだけれども、体力そのものを回復させて自然な治癒力で病気を起こさないようにするということがより根本的で有効ではないだろうか。

 この社会が急を要するほどに病んでいるとは僕も考えていない。だから、まだ予防医学的な方法がとれると思う。とれると思うんだけれども、もしかしたら人体と社会の比喩から学ぶべき最も重要な事は、人体がいつか必ず死ぬということかもしれない。