僕の労働観

ひとしきりあって。
労働観について、少しだけ書いておきたいことがあります。

「もし働かないで十分に生活していけるなら、自分は働かないでいるだろうか」
この疑問にどう答えるかで、その人の労働観についてある程度知ることができると思います。この問いは、その人が目指すベストな状態について訊ねているわけです。
労働以外の活動に重点をおいた生き方がベストだと思うなら、働かないという答えになります。労働に自分のアイデンティティを強く見いだすことがベストと感じるなら、働くと答えられますね。
身近な人に訊ねて見ればいいでしょう。「働かない」と答える人が多いと思います。僕も、「働かない」と答えます。

さて、上記は”もし”の話でした。現実ではどうでしょう。「働かない」と答えた多くの人が労働していますね。就労前の学生なども、自分たちが労働しないで生きていけるとは考えていないでしょう。
それは、多くの人が働かないでは生活していけないからです。では、以下の文を読んで、 何か引っかかりませんか?

「自分が働き続けて最終的に目指すのは、働かないで生活していける状態である」
「働かないでよくなるために働く」ということに、僕は矛盾を感じずにはいられない。しかし、僕が生きる現実の状況では、経済的事情から、どうしても労働せざるを得ません。
生活するために働かざるを得ない、という労働の強制的側面は、労働にネガティブな動機を与えます。ネガティブな動機で行う労働が、そのままで人間に幸福を与えるとは言い難いですね。
では僕は不幸な労働者になってしまうのでしょうか。いいえ、まだそうと決まったわけではありません。
確かに動機がポジティブな方が、積極的に充実した労働を行える可能性が高いです。けれども、強制されて始める労働が全て不幸だとは思いたくない。

僕は、働くこと自体をどこまでもベターにしていくことで、矛盾ある現実の労働を限りなくベストに近づけることができると信じているからです。

好きなことを仕事にしたり、やりがいのある仕事を選んだり、労働環境の良い会社に入ったり、そうやって自分の中での労働の価値を上げていく努力ができる。出発点がネガティブな動機であっても、それが不幸に直結するわけではないんです。
もし不幸な労働があるとすれば、「自分の努力では労働の価値を見いだせない、改善できないという状況を強制される中で、労働を強制されること」でしょう。
そういった、労働の強制的側面に加えて改善できない状況も強制されているという、「二重の強制」が問題であると感じています。政治が力を注ぐべきなのは、ネガティブな動機の解消に加えて、そんな状況を強制するものの打破であると言いきります。

もう一度最初の問いに戻ります。僕の答えは「働かない」です。不労が僕のベストです。
ただし、どこまでもベターにしていった労働は、限りなくベストな不労に近いということを付け加えておきたい。
不労でありながら他の活動に価値を見いだすことと、労働活動に価値を見いだした上で働くことは、埋めるのが難しいほど乖離してはいない、と結論づけます。
労働においても、「ベストを目指しつつ状況をベターに改善していく」という僕が信じるライフハックを実行していきたいです。

労働観、矛盾を乗り越えて労働に価値を見いだす努力が、詩になるもの。