戯曲・小説「シラノ・ド・ベルジュラック」感想

そんなわけで。「素晴らしき日々〜不連続存在〜」というゲームで引用され、作品内で重要な役割を果たすロスタン作の戯曲「シラノ・ド・ベルジュラック」についての感想。
前述のゲームから興味を持ち、今回読んだのは、渡辺守章訳「シラノ・ド・ベルジュラック」(光文社古典新訳文庫)と、遠藤周作著「シラノ・ド・ベルジュラック」(新潮社遠藤周作文学全集〈6〉)。前者は、実際にゲーム中に出てくるのがまさにこの光文社古典新訳文庫から出ているものだったために選んだ。後者は、遠藤周作の短編小説であり、さらに「シラノ・ド・ベルジュラック」への理解が深まるかと思い、手を出してみた。
あらすじ等を知りたい人は、シラノ・ド・ベルジュラックとは - はてなキーワードシラノ・ド・ベルジュラック - Wikipediaあたりを読むとよい。
では、順番通りに軽く感想を書いていこう。

渡辺守章訳「シラノ・ド・ベルジュラック

1

本書の主な構成は、本編、訳注、解題、年譜となっている。
戯曲を読むのは初めてだったけれど、訳者の「『芝居の楽しみ』を再現しよう」という意向通りに読むことができた。
訳者の渡辺守章は、橋爪功が代表を務める演劇集団 円の脚本家として活躍している他、フランスの哲学者ミシェル・フーコーを日本に紹介することに尽力したことでも知られている。*1

2

全編通して面白かった。台詞とト書きを読んでいると、まるで実際に芝居を見ているかのように錯覚する。登場人物達がめまぐるしく動き回り、喜怒哀楽する様が手に取るように伝わってくる。笑いどころや泣きどころが分かりやすいのも良いね。ナイス翻訳と言わざるを得ない。
主人公シラノが最初から最後まで貫き通した心意気には感服する。これを舞台で観劇したら、さらに感激するんだろうなー なんつって。

3 素晴らしき日々との関連

さて、本作品を手に取るきっかけとなったゲーム「素晴らしき日々〜不連続存在〜」の冒頭他では、第二幕第十場のシラノの台詞が引用されている。*2本作の中でも名場面であるから、ここでも引用しておく。

シラノ (前略)
 俺たちはな、ただ名前ばかりがシャボン玉のように
 膨らんだ、夢幻(ゆめまぼろし)の恋人に恋い焦がれている。
 さあ、受け取れ。この偽りを、真実に変えるのは君だ。
 俺は当てもなく、恋だ嘆きだと書き散らかしたが、
 彷徨う鳥の留(と)まるのを、君は見ることが出来る人だ。
 さあ、取りたまえ、――実(じつ)がないだけ雄弁だと
 君にも分かる時が来る。――さあ、取りたまえ!
 (後略)

ゲーム内の記述からは具体的にどのような場面か分からなかったけど、原典を読むことではっきりと分かった。これは、シラノがクリスチャンに、共通の想い人ロクサーヌへの手紙を渡すシーンである。醜い鼻を持つ自分ではなく、美青年のクリスチャンに手紙を託すことで、二人の恋を成就させようと励ますのだ。"さあ、取りたまえ!"という台詞のなんと貴いことか。後述するシラノの心意気が溢れる言葉である。単なる美文ではない、血の通った生きた言葉である。
また、同作第三章「Looking-glass Insects」においても、登場人物が第五幕第六場のシラノの台詞を引いている。死にゆくシラノが放つ言葉、

シラノ (前略)
 何だと?……無駄な努力だ?……百も承知だ!
 だがな、勝つ望みがある時ばかり、戦うのとは訳が違うぞ!
 そうとも! 負けると知って戦うのが、遥かに美しいのだ!
 (後略)

ここにもシラノが持つ魂の強さを見て取ることができる。素晴らしき日々においても、このシラノの言葉を引いた者は、その魂の貴さまで受け継いだかのような振る舞いを見せる。魂の貴さ、それは一言で言えば、

シラノ (目を開き、ロクサーヌの方を認めて、かすかに笑い) 心意気だ!

この「心意気(Mon panache=モン・パナッシュ=羽根飾り)」は"シラノの精神的紋章"である。しかし、元々の「羽根飾り」という言葉にそのような意味はなく、原作者であるロスタンが創造したものらしい。
CLANNADは人生」メソッドで言えば、「シラノ・ド・ベルジュラックは心意気」である。今日はここだけでも覚えて帰ってほしい。

4 解題

訳者は、戯曲の「読み」を更新したく思っていたという。
以下は、理解しきれていないものの、自分なりに読み取った要点である。

  • シラノの「巨大で醜悪な鼻」は、「英雄喜劇」のヒーローに実存的な両義性を与えることができた
  • この作品が戯曲として持つ魅力は、「恋の言説」の超絶技巧である
    • 「恋の言説」は文字ではなく声によって「生きた言葉」となる→声の絶対優位性
    • ジャック・デリダの「声と現象」を引けば、シラノの口説きは「現象する声」である
  • 訳者の読み直しの一環として、「芝居の楽しみ」の読み起こしがあった

遠藤周作著「シラノ・ド・ベルジュラック

1

遠藤周作は、ロスタンのシラノに特別な関心を寄せていた。エッセイとして「シラノの鼻」を書いた他、恋愛を論じる上でたびたび取り上げていたようだ。
遠藤が書いたこの「シラノ・ド・ベルジュラック」は二段組みにして10ページ程度の短編小説である。
留学した「私」が、妻を寝取られたウイ先生と出会い、彼にフランス語を学ぶところから話は始まる。「私」は、ある時ウイ先生の部屋で羊皮紙を見つける。そこには、ロスタン作の戯曲とは違うシラノの姿が書かれていた。読み進めるうちに、シラノ・ド・ベルジュラックの新しい一面が現れてくる。

2

「実在のシラノ」*3は、青年時代には美しい姿であり、ロクサーヌと愛のない婚約をする。その後、鼻に腫物ができ、彼女と別れる。彼はクリスチャンに憎悪を抱く。

人は、失ったものにこそ、心を向けるのである。
(中略)
ロクサーヌがこの時ほど美しく見えたことはない。

彼は別れてから初めてロクサーヌを想い、倒錯してクリスチャンとロクサーヌをくっつけようとする。手が届かない所へ置くことで、彼女に執着し続けようというのだ。

俺は、この醜悪な鼻のために、顔や肉体だけではなく、魂まで腐っていくような気がする

というシラノの苦悩が生々しい。

3

この作品からは、遠藤周作の文学観が垣間見える。"文学とは修辞学(レトリック)"であるとするウイ先生に対して、「私」は"人間の真実であり、生きた人間と、その心の闘いを描くもの"が文学だと思っている。
そして、件の羊皮紙を巡って、両者の違いが浮き彫りにされる。かたくなに「あれは文学ではないものだ」と言うウイ先生。しかし、彼が本作の終盤で「私」に打ち明けた真実はあまりに悲しいもので、否応なしに文学と人間の関係を意識させる。
短編ながら秀逸な小説だった。

ここまで僕が「シラノ・ド・ベルジュラック」に触れてきたのは、本作品原典の訳本、遠藤周作の小説、素晴らしき日々作中での引用という形だった。
他にも、手塚治虫「七色いんこ」の一編として描かれた「シラノ・ド・ベルジュラック」を読んだことを以前書いた。手塚スターシステムでシラノ役と言えば猿田しかいない。これも名演であった。
このように、「シラノ・ド・ベルジュラック」は様々な媒体においてその名前を見ることができる。この作品がどれだけ愛されているかの証拠であろう。
戯曲という形で、ロマンある文学に触れたい方にはお薦めである。

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*1:渡邊守章 - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A1%E9%82%8A%E5%AE%88%E7%AB%A0

*2:ゲーム内の訳文は本作のものとは微妙に違っている

*3:この小説で言う「実在のシラノ」が真に実在のシラノであるかは分からず、そのため「」つきで表記する。